深山荘の霧編
第一章
探偵にとって一番ありがたい依頼は、事件が片づいていて、報酬だけが振り込まれることだ。もっとも、そんな都合のいい依頼は一度も来たことがない。沢井はそう考えながら事務所の鍵を開けた。郵便受けには一通の封筒が差し込まれていた。それを抜き取り、事務所の中へ入る。一度立ち止まり、扉を閉めた。
封筒はまだ開けていない。急いで読んでも中身は変わらない。まず湯を沸かす。珈琲を淹れる。その間だけは依頼人のことを考えない。考えたところで、向こうはこちらを知らないし、こちらも向こうを知らない。依頼人と探偵の仲は、最初はその程度で十分だった。
湯気が立ちのぼる。沢井は珈琲を一口飲み、それからようやく封を切った。便箋は一枚だけだった。長い手紙は自分のことばかり書いてある。短い手紙は肝心なことが書いてない。この手紙は後者だった。
深山荘という旅館で、不思議なことが起きています。どうか、お越しいただけないでしょうか。深山美緒。
それだけだった。沢井はもう一度読んだ。やはりそれ以上のことは書いていない。何が起きたのか。誰が困っているのか。なぜ自分なのか。何一つ分からない。分かったのは、この手紙を書いた人が短い文章を書くのが上手な人ではないということだった。
沢井は便箋を封筒へ戻し、車の鍵を手に取って事務所の灯りを消した。玄関の扉に鍵を掛ける。古びた錠前が一拍遅れて音を立てた。沢井は振り返り、事務所の窓を見上げた。消えた灯りがガラスに朝の空を映していた。
車は狭い路地を抜け、ゆっくりと坂を下った。深山荘。聞いたことのない名前だった。旅館の名前というものは、不思議と土地の景色を先に想像させる。海の見える宿なら海を。渓谷の宿なら谷を。深山荘という名は、そのどちらでもなかった。山の奥へ、人をしまっておくための名前のように思えた。
信号で車を止める。助手席には封筒が置かれていた。赤信号のあいだに、もう一度だけ手紙を開く。便箋は一枚。やはり何も増えていない。沢井は苦笑して封筒を閉じた。短い手紙というものは、二度読んでも長くはならない。それでも人は、二度目なら何か見落としていたものが現れるような気がしてしまう。
車は都心を離れ、高速道路へ入った。街並みは少しずつ低くなり、窓の外からビルが消えていく。代わりに山並みが近づいてきた。沢井は運転席の窓を少しだけ開けた。冷たい風が流れ込み、車内の珈琲の匂いを押し流していく。山へ向かう道は嫌いではなかった。人は山へ行く理由をあまり話したがらない。帰ってきた理由は、なおさら話したがらない。依頼も、たいていそうだった。
ナビが機械的な声で次の分岐を告げる。目的地まで、残り百二十七キロ。沢井は依頼料がガソリン代くらいは上回ってくれると助かるが、と独り言を言った。誰も聞いていない独り言ほど、本音に近い。
車は山道へ入った。舗装はされていたが、車一台がようやく通れるほどの幅しかない。木々が空を覆い、昼間だというのに薄暗かった。助手席には深山美緒からの封筒が置かれていた。沢井は一度だけ横目で見た。何が不思議なのかくらい書いてくれてもよかったのに、と独り言を言った。もちろん封筒は最後まで何も答えなかった。
カーブを一つ曲がるたびに、木々は少しずつ背を高くしていった。ガードレールの向こうには谷があり、その底は霧で見えなかった。対向車は一台も来ない。後ろにも誰もいない。山道というものは不思議と独り言が増える。沢井は鹿でも幽霊でも、話し相手がいてくれれば眠気も覚めるんだが、と独り言を言った。もちろん誰も返事はなかった。
しばらく登ると、木々が途切れた。霧の向こうに一軒の旅館があった。深山荘。山の中へ建てられたというより、山がそのまま旅館の形になったような建物だった。沢井は車を駐車場へ入れた。停まっている車は五台、どれも冷え切っていた。エンジンを切る。静かだった。静かというより、音がどこかへ吸い込まれているようだった。
沢井は車を降りた。ドアを閉める音だけが妙に大きく響き、すぐに消えた。風は吹いている。だが木々はほとんど揺れていなかった。沢井は旅館を見上げた。どの窓もこちらを見ているようで、どの窓にも人の気配はなかった。玄関脇には木の看板が掛かっていた。深山荘。黒い文字は長い年月で艶を失っていたが、そこだけは新しく手入れされたように見えた。沢井は鹿より先に宿が出てくるとは思わなかった、と独り言を言った。誰も笑わなかった。もちろん返事もなかった。
沢井はコートの内ポケットへ手を入れ、深山美緒からの封筒を確かめてから、玄関へ向かって歩き出した。古い木の階段が一段だけ大きく軋んだ。
玄関へ近づくにつれ、木の匂いが濃くなった。新しい木ではない。長い年月、雨と雪を吸い込み続けた木の匂いだった。沢井は引き戸の前で立ち止まった。戸は少しだけ開いていた。客を待っているのか。誰かが閉め忘れたのか。それとも最初から閉める気がなかったのか。沢井は旅館というのは客を迎える商売だったはずなんだが、と独り言を言った。返事はなかった。
引き戸を静かに開ける。鈴が一つ鳴った。高く澄んだ音だった。その音だけが廊下の奥へ流れていき、やがてどこかで途切れた。誰も出てこない。沢井は靴を脱いだ。磨かれた板張りの廊下は、人が歩いている旅館とは思えないほど冷えていた。正面には古い柱時計が置かれている。振り子は静かに揺れていた。時を刻む音だけが、館内へ規則正しく響いている。
そのとき、廊下の奥で襖の開く音がした。一人の女が姿を現した。四十代半ばほどだろうか。黒い着物をきちんと着こなし、沢井を見ると深く頭を下げた。
「……沢井様でしょうか」
女は安心したようにも見えた。だが、その表情から緊張は消えなかった。沢井は小さく頷いた。女は名乗った。深山美緒だった。
沢井は一礼した。美緒も頭を下げた。顔を上げても、その目だけは沢井から離れなかった。
「間に合いましたか」
沢井が尋ねると、美緒は少しだけ口を開き、やがて静かに頷いた。
「間に合ったのかどうかは、私にも分かりません」
沢井はそれ以上聞かなかった。答えられることと答えられないことがある。その違いくらいは、長く探偵をやっていれば分かるようになる。
美緒は廊下の奥へ向き直った。「どうぞ」。沢井は黙って後に続いた。廊下は思ったより長かった。磨き込まれた板は足音をよく返した。柱には幾筋もの傷が残り、建具は古かった。それでも埃は見当たらない。
「宿は客が多いんですか。それとも、年に一度の静かな日を選んでしまいましたか」
沢井が歩きながら尋ねると、美緒は歩みを止めなかった。
「今日は、静かな日ではありません」
それだけだった。廊下の先に広間の障子が見えた。障子の向こうに人の気配がある。誰も話してはいなかった。沢井は障子の前で足を止めた。
美緒は障子を静かに開け、一歩だけ脇へ退いた。沢井は広間へ足を踏み入れた。畳は新しく替えられていたが、柱も長押も黒く艶を失い、長い年月だけは隠しようがなかった。部屋の中央には火の落ちた囲炉裏があり、その灰だけが白く残っていた。
人は七人いた。誰も立ち上がらない。誰も挨拶をしない。ただ沢井が部屋へ入ってくるのを、それぞれの場所から静かに見ていた。沢井は、その重苦しい視線の集中砲火を受けて、わざとらしく肩を回し、首をひとつ鳴らしてみせた。長旅で凝った、とでも言いたげな仕草だった。誰も反応しなかった。沢井は内心、七人まとめて愛想のない客だ、と独りごちた。それから、慌てず一人ずつ顔を見た。年老いた男が一人。若い夫婦が一組。一人で座る老人。神経質そうな男。仲居が二人。そして窓際には、腕を組んだまま立っている男がいた。警察だった。警部は沢井と目が合うと、小さく会釈をした。沢井もそれに返した。同じ部屋に探偵と警察がいるときは、互いに名刺より先に相手の顔を見る。それが長年の癖になっていた。
一人で座る老人だけが、膝の上で、両手を、やけに固く握りしめていた。歳のせいで震えるのを抑えている、というより、痛みを堪えているような握り方だった。沢井はそれを、目の端に留めただけで、それ以上は気にしなかった。年寄りの手には、大抵、何かしらの理由がある。
美緒が部屋の隅へ静かに下がる。
「皆さん、お待ちしていました」
その一言だけで、広間の空気が少し動いた。だが誰一人として口を開こうとはしない。沢井は囲炉裏の脇に並んだ湯飲みへ目を向けた。八つあった。七つは空だった。一つだけ、茶が半分ほど残っている。湯気はもう消えていた。
「あれは、ご主人のものですか」
沢井が湯飲みを見たまま尋ねると、美緒は静かに頷いた。
「はい。誰も片づけられませんでした」
沢井は、その湯呑みを、もう少しだけ、見つめた。茶の縁に、指の跡らしきものが、幾つも、残っていた。何度も持ち上げては、口をつけずに、また置いた跡のようだった。落ち着かない人間の癖だ、と沢井は思った。死ぬ前夜まで、何かに、思い悩んでいた人間の癖でもある。
その返事を聞いて、沢井はようやく部屋の空気が重い理由を理解した。この旅館では、まだ誰も事件を終わったものとして受け止めていなかった。
囲炉裏の向こうで、警部が静かに立ち上がった。五十代半ばほどだろうか。背筋はまっすぐ伸び、制服にも乱れはない。それでも目の下には濃い疲れが残り、昨夜からほとんど眠っていないことだけは隠せなかった。沢井へ歩み寄ると、深く頭を下げた。
「県警の松岡です。突然お呼び立てして、申し訳ありませんでした」
沢井も軽く頭を下げた。
「いえ。来る途中、鹿でも出てくれれば退屈しなかったんですが、山は思ったより無口でした。依頼を受けたのは私ですから」
松岡は一瞬だけ口元を緩めた。しかし、その表情はすぐに消えた。
「私も二十年以上この仕事をしておりますが、今回ばかりは少し手を焼いております」
そう言うと、広間をゆっくり見渡した。宿泊客も従業員も、誰一人として顔を上げようとはしない。
「現場は、そのまま残してあります」
沢井は頷いた。
「触った人は」
「遺体を確認した医師だけです。それから誰も部屋へ入れておりません」
部屋の前には若い巡査が一人立っていた。沢井たちを見ると背筋を伸ばし、一礼する。
「変わりありません」
松岡は頷いた。
「ご苦労」
巡査は一歩脇へ下がった。沢井は巡査に向かって、悪ふざけのような小さな敬礼を返した。若い巡査は一瞬だけ戸惑い、それから少しだけ口元を緩めた。松岡は何も言わず、上着の内ポケットから鍵を取り出した。
松岡は障子へ手を掛け、ゆっくりと開いた。部屋は静まり返っていた。さきほどまで人が大勢出入りしていたはずなのに、今はその気配さえ残っていない。沢井は敷居をまたぎ、部屋の中をゆっくりと見回した。六畳ほどの書斎だった。窓は閉じられ、机と本棚、それに古い木椅子が置かれている。どれも元の場所に戻されたように整っていた。ただ一つだけ、その整い方が異様だった。椅子だけが空いている。そこに座っていたはずの人だけが、いなくなっていた。
沢井は椅子の前で足を止めた。松岡が静かに口を開く。
「鑑識を終え、遺体は三十分ほど前に搬送しました。本来なら、この部屋も封鎖したままにする予定でしたが、現場だけは見ていただきたいと思いまして」
沢井は頷いた。
「判断は間違っていません。事件は、人より先に部屋が話しますから」
松岡は何も言わなかった。
沢井は椅子へ目を向ける。床には乾き始めた血痕が残り、その色だけが、この部屋で起きた出来事を静かに物語っていた。争った跡はない。机も動いていない。本棚も乱れていない。まるで、主人だけが部屋から切り取られてしまったようだった。
沢井はゆっくりと歩き始めた。部屋というものは、人がいなくなったあとほど、多くを語ることがある。彼は机の前で立ち止まり、万年筆、帳面、湯呑み、それに黒い鉄の文鎮を順に見た。文鎮は一つだけだった。書き物机に、文鎮が一つしかない、というのは、それ自体は珍しくもない。だが沢井は、その一つを、しばらく指で軽く押してみた。ずしりとした重みがあった。それだけを確かめて、視線を畳へ落とした。そのときだった。沢井の足が止まった。彼はゆっくりと視線を落としたまま、しばらく動かなかった。
部屋は静まり返っている。障子の向こうで風が鳴るたび、柱がかすかに軋む。その音だけが、誰もいない部屋をゆっくりと横切っていった。沢井は膝を折り、畳へ顔を近づけた。血痕から少し離れた場所だった。何かを拾うわけでもない。触れることもしない。ただ見ている。
畳の縁に近い辺りに、ごく薄く、二本の細い線が、平行に走っているのが見えた。轍にしては細すぎる。何かの車輪が、そこを通ったような跡だった。沢井は指を広げ、二本の線の間隔を、目分量で測った。だいたい、指三本分。だが、それが何を意味するのか、この時点の沢井には、まだ分からなかった。頭の隅に、留めておくだけの、小さな引っかかりだった。
松岡は声を掛けようとして、やめた。沢井が見ている間は、邪魔をしないほうがいいと直感した。
やがて沢井は立ち上がった。
「この部屋は、少し静かすぎますね」
松岡は室内を見回した。
「静か、と言いますと」
沢井は椅子へ目を向けた。
「机も、本棚も、湯呑みも、そのままです。人だけがなくなっている。まるで、この部屋は最初から、それを待っていたみたいだ」
誰も答えなかった。その沈黙の中で、廊下の奥から木の軋む音がひとつ聞こえた。美緒が思わず振り返る。廊下には誰もいなかった。




