第6話 後編
母が家を出た翌朝、台所は静かだった。
音が減ったわけではない。余分な音が消えただけだ。
父は早く起き、鍋を火にかけている。
味噌の匂いが広がる。
「起きたか」
父は振り返らずに言った。
「うん」
朝食は温かかった。
量も、味も、問題ない。
ただ、向かいの席が空いている。
父は箸を置くと、新聞を広げた。
いつもの動作だ。変わっていない。
変わったのは、人数だけだった。
生活はすぐに整った。
洗濯は父がまとめてやる。
掃除は週末に二人で済ませる。
「これで、いいな」
父が確認する。
「うん」
会話は短いが、破綻はない。
不満も、衝突も起きない。
学校から帰ると、父はすでにいることが多かった。
テレビをつけ、ニュースを眺めている。
「腹、減ってるか」
「少し」
「じゃあ、先に食うか」
気遣いはある。
だが、踏み込まない。
その距離が、この家の安定だった。
父と暮らす生活では、「予定外」がほとんど起きなかった。
帰宅時間。
食事の時間。
休日の過ごし方。
すべてが事前に決まっているわけではない。
ただ、変化が入り込む余地がない。
「今日は、残業だ」
父がそう言えば、
「分かった」
それで終わる。
代案も、不満も出ない。
悠真は、自分がその状況に順応していることに気づいていた。
合わせることが、最短距離だと分かってしまったからだ。
感情を出さなければ、衝突は起きない。
期待しなければ、失望もしない。
この家では、波を立てないことが最善だった。
父は、それを「楽になった」と受け取っているようだった。
「手がかからなくなったな」
そう言われた時、褒められているのだと理解した。
同時に、何かが終わった感覚もあった。
時間が経つにつれ、悠真は“手のかからない存在”になった。
提出物は自分で処理する。
進路の話は持ち出さない。
「何かあったら、言えよ」
父はそう言う。
「分かった」
だが、具体的に聞かれることはない。
相談しないことが、父への配慮になっていると理解してしまった。
この家では、問題を起こさないことが正解だ。
ある日、父が珍しく声をかけた。
「……疲れてないか」
問いは曖昧だった。
「大丈夫」
悠真は即答する。
父はそれ以上、踏み込まない。
無理に聞かないことが、父なりの誠実さだ。
その誠実さは、踏み込まれない距離を固定する。
守られている。
同時に、放っておかれている。
どちらも、事実だった。
年月は、静かに過ぎた。
進学し、働き始め、家を出る。
父とは、連絡を取り合っている。
「ちゃんと食ってるか」
「問題ない」
電話は短い。
用件だけで終わる。
父は変わらない。
できることを、できる範囲で続けている。
不幸ではない。
生活は、安定している。
ある夜、帰り道で足を止めた。
立ち止まったまま、悠真はしばらく動けなかった。
父と過ごした日々を思い返す。
怒鳴られたことはない。
放り出されたこともない。
必要なものは与えられ、必要以上は求められなかった。
それは、優しさだったのだろう。
少なくとも、悪意ではない。
だが、その優しさの中で、自分は何を望んでいいのか分からなくなっていた。
不満を言わなければ、問題は起きない。
期待しなければ、失うものもない。
そうやって、
感情を小さく折りたたむことを覚えた。
――これで、正しいのか。
問いは浮かぶ。
だが、答えを出す理由がない。
不幸ではない。
誰かに傷つけられたわけでもない。
だからこそ、「足りない」と言う資格がない気がしていた。
自分は、恵まれている側だ。
そう言い聞かせることは、簡単だった。
それでも、胸の奥に残る。
笑った記憶はある。
安心した夜もある。
「これで生きたい」と思った瞬間が思い出せない。
守られてきた。
間違いなく、守られていた。
けれど、どこへ向かいたいのかは、誰も聞かなかった。
聞かれなかったから、考えなくなった。
考えなくなった結果、自分が何を欲しているのか、分からなくなった。
――このままでも、生きてはいける。
生きていくだけでいいのか。
問いが、はっきりと形を持つ。
初めて、環境ではなく、他人でもなく、自分自身に向けて思う。
――幸せになりたい。
理由はない。
条件もない。
ただ、満たされたと感じてみたい。
そう願った瞬間、これまでの人生が、静かに遠ざかっていった。




