第6話 前編
目を覚ました瞬間、悠真は息を吐いた。
長く、深く。焦りを逃がすための呼吸だった。
枕元のスマートフォンを手に取り、画面を点ける。
日付を確認して、静かに頷いた。
――今回は、違う。
事故が起きたはずの日。
だが、その数字は平然と並び、何事もなかった顔をしている。
止めに行こう、という衝動は湧かなかった。
もう知っている。この世界では、事故は起きない。
代わりに、別のことが起きる。
布団を抜け、廊下を歩く。
時計の秒針が、やけに大きく聞こえた。
居間には、父がいた。
テーブルに肘をつき、新聞を広げている。
「おはよう」
父は顔を上げずに言った。
「おはよう」
悠真が返す。
母の姿はない。
台所も、玄関も、音がしない。
それだけで分かる。
生活の線が、すでにずれている。
朝食は簡素だった。
父がトーストを焼き、コーヒーを注ぐ。
「今日は、どうする」
「学校」
「そうか」
会話は、それで終わった。
不機嫌ではない。
だが、踏み込まない。
家の空気は、割れてはいない。
ただ、温度が下がっている。
中盤A【父との距離】
父と過ごす時間は、確かに増えた。
夕方には帰宅し、テレビをつける。
ニュースが流れ、父は頷くだけだ。
「これ、どう思う」
悠真が画面を指すと、
「……難しいな」
父はそれだけ言う。
否定も肯定もない。
会話は広がらないが、破綻もしない。
母からの連絡は短い。
『今日は遅くなる』
『手続き、進めるね』
感情は書かれていない。
「母さんから?」
悠真が聞くと、
「ああ」
父はそれ以上言わない。
距離は保たれている。
それが、父なりの配慮だと分かる。
だが同時に、
踏み込まれない距離でもあった。
父と並んで座る時間が増えるほど、沈黙にも慣れていった。
気まずさはない。ただ、踏み込まない約束だけが共有されている。
「寒くなってきたな」
父がテレビから目を離さずに言う。
「そうだね」
それ以上、話題は広がらない。
だが、この距離感が壊れない理由でもあった。
近づかないことで、関係を保っている。
悠真は、そのやり方を理解してしまった。
その日は、唐突に来た。
三人で食卓に座る。
皿の位置が、妙に整っている。
父が先に口を開いた。
「……話がある」
母は、黙って頷いた。
「離婚する」
簡潔な言葉だった。
母が続ける。
「これからのことも、決めないと」
沈黙が落ちる。
父は、少し間を置いて言った。
「無理はさせない」
悠真を見る。
「選ばなくてもいい」
その言葉が、逆に重い。
選ばなくていい、という形で、
選択が差し出されている。
悠真は、視線を落とした。
考える時間は、与えられている。
だが、答えは求められている。
「……父さんと、いる」
言葉は、自然に出た。
父は何も言わずに頷いた。
母は、一瞬だけ目を閉じる。
責める声はない。
引き止める言葉もない。
決断のはずだった。
だが、胸は動かない。
選んだという実感が、薄い。
母が荷物をまとめ始めてから、家の中の時間の流れが変わった。
箱が増えるたびに、部屋は広くなる。
広くなるのに、息が詰まる。
父は、特に何も言わなかった。
段ボールが運ばれても、新聞を読む手は止まらない。
「これ、いる?」
母が衣類を手にして聞く。
「……そっちで使うなら」
悠真が答えると、母は小さく頷いた。
必要かどうかではなく、
“どちらに置くか”を決めているだけだ。
夜になると、母は別の部屋で寝るようになった。
ドア一枚の距離が、思った以上に遠い。
父と二人で食べる夕食は、静かだった。
「味、どうだ」
「大丈夫」
それ以上の感想は求められない。
求めないことが、この家の礼儀になっている。
母は忙しそうに動いている。
書類に目を通し電話をし予定を書き込む。
その背中を見ていると、
もう戻れない場所に向かっているのだと分かる。
悠真は、ふと考える。
自分は、何か間違えただろうか。
違う答えが、あっただろうか。
だが、思い返しても、
他に言える言葉は見つからない。
選択肢は、確かにあった。
だが、そのどれもが「正解」には見えなかった。
父を選んだことで、何かを得た実感はない。
母を選ばなかったことで、何かを守れたとも思えない。
ただ、家の中に残るのは、
決めてしまったという事実だけだ。
ある朝、母が言った。
「今日、鍵返すから」
「うん」
それだけで、会話は終わる。
玄関に置かれた靴の数が減る。
音が、また一つ消える。
父は、見送らなかった。
見送らないことで、区切りをつけているようにも見えた。
悠真は、居間に一人残る。
ここにいることが、
選択の結果なのだと、改めて思う。
だが、その実感は最後まで薄かった。
「体に気をつけて」
母はそれだけ言った。
「うん」
悠真は答える。
父は、玄関に立ったまま動かない。
家の中に、空白が残る。
それは、これから広がっていく。
人生は、まだ続く。
だが、欠け始めたことだけは、はっきりしていた。




