第5話 後編
父が家を出ていったのは、雨の降らない朝だった。
玄関の音は短く、重ならない。
それだけで、終わったのだと分かった。
母は台所に立ち、湯を沸かしている。
カップを二つ並べ、黙って注いだ。
「落ち着いたら、引っ越そうと思う」
唐突だったが、決定事項の言い方だった。
「うん」
それ以外、言葉は出ない。
話し合いはもう済んでいる。
怒鳴り声も、泣き声もなかった。
終わる時は、こんなものなのかと、悠真は思った。
新しい部屋は、駅から少し歩いた先にあった。
古い集合住宅。
階段は狭く、足音が響く。
「思ったより、静かだね」
母が言う。
「うん」
部屋は、二人で暮らすには十分だった。
だが、余白はない。
家具を置くと、通路が細くなる。
窓を開けると、隣の建物が近い。
父の話は出ない。
写真も、持ってこなかった。
空白は、言葉にされないまま置かれた。
生活は、すぐに回り始めた。
母は仕事に出る。
帰りは遅くなる。
「先に食べてて」
短いメモが、冷蔵庫に貼られる。
悠真は頷き、夕食を温めた。
一人で食べることに、すぐ慣れた。
洗濯物は夜に畳む。
音を立てないように、気をつける。
母は疲れている。
それが、目に見えて分かる。
「大丈夫?」
聞くと、母は笑う。
「大丈夫だよ」
その笑いが、少し薄い。
自然と、手が動くようになった。
洗い物。掃除。買い物。
「ありがとう」
母が言う。
その一言が、妙に重い。
頼られている、と感じる。
同時に、子どもでいる感覚が薄れていく。
「無理しなくていいからね」
母はそう言うが、無理をしているのは母のほうだ。
悠真は、それ以上何も言わなかった。
言えば、余計に負担になる気がした。
守られている。
だが、支えてもいる。
その境界が、曖昧になっていく。
ある日、母が珍しく早く帰ってきた。
「今日は、少し余裕あったから」
そう言って、惣菜の袋をテーブルに置く。
「たまには、楽をしようと思って」
悠真は頷き、皿を並べた。
二人で食べる夕食は、久しぶりだった。
「……助かってるよ」
母が、箸を止めずに言う。
「何が?」
「いろいろ」
具体的な言葉は出てこない。
それでも、感謝だけは伝えようとしている。
悠真は返事をしなかった。
代わりに、空になった皿を下げる。
頼られていることは、悪くない。
だが同時に、それは役割が固定されつつある合図でもあった。
この家では、自分が「支える側」に回るのが自然になっている。
気づいた時には、子どもとして甘える場所は、もうなかった。
母と暮らす時間は、穏やかに続いていった。
喧嘩はない。衝突もない。だが、余裕だけが少ない。
「今月、ちょっと節約しようか」
母がそう言う時、声は明るい。
明るく言わないと、家の空気が沈むからだと分かる。
「分かった」
悠真は即座に答える。
理由を聞く必要はない。聞けば、母が説明を始めてしまう。
誕生日も、派手なことはしない。
ケーキの代わりに、少しだけ良い夕食。
「おめでとう」
「ありがとう」
それで十分だと、互いに言い聞かせるように笑う。
母は相変わらず遅い日が多い。
帰宅した時の「ただいま」が、どこか軽い。
「無理してない?」
悠真が聞くと、母は少しだけ眉を上げる。
「大丈夫。慣れてるから」
慣れてしまったのだ。
その言葉が、妙に胸に残る。
悠真は、家の中でできることを増やした。
洗い物、掃除、買い物。
母が「ありがとう」と言う回数が増えるほど、子どもでいられる時間が減っていく。
それでも、同じ家で過ごせること自体が、支えでもあった。
この生活が続けばいい、と一瞬思う。
だが同時に、続けるだけでは何も変わらないとも感じる。
そして結局――家を出る日が、ちゃんとやって来た。
年月は、静かに積み重なった。
進学し、働き始める。
家を出る日が来る。
「ちゃんと食べてる?」
「大丈夫」
電話のやり取りは短い。
母は変わらず働いている。
疲れは抜けないが、倒れることもない。
安定している。
それが、この人生の特徴だった。
その日は、帰り道だった。
夜風が冷たく、街灯が一定の間隔で並ぶ。
立ち止まり、息を整える。
この人生は、悪くなかった。
母は守ろうとしてくれた。
自分も、できることはやった。
不幸ではない。
だが、満足しているかと聞かれれば、答えは出ない。
選んだようで、選ばされた。
守られながら、気を遣い続けた。
視界が、ゆっくりと滲む。
――これでいいとは言えない。
落ちる感覚が、静かに訪れた。




