第5話 前編
目を覚ました瞬間、悠真は体を起こした。
呼吸を確かめるより先に、頭が働く。
――日付。
枕元のスマートフォンを掴み、画面を点ける。
指先が一度滑り、もう一度、確実に操作する。
表示された日付を見た瞬間、喉が詰まった。
表示された日付は、五月八日だった。
事故の日――五月十二日まで、まだ四日ある。
同じだ。
あの日と、同じ月、同じ週。
映像が、反射のように戻ってくる。
ハンドルに伏せた父の姿。
振り返った母の目。
体を包む衝撃。
考える前に、体が動いていた。
悠真は部屋を出て、廊下を歩き、居間を覗く。
テレビの音。
母が洗濯物を畳んでいる。
「おはよう」
声は、思ったより普通に出た。
「おはよう」
母は顔を上げて、いつも通りに返す。
次は、父だ。
玄関。靴。上着。
父は出勤の準備をしていた。
いる。
二人とも、生きている。
安堵より先に、焦りが来た。
――止めないと。
理由はない。
説明できる言葉もない。
ただ、同じ日に同じ流れで外に出させてはいけない。
それだけが、はっきりしていた。
朝食の席で、悠真は切り出した。
「十二日出かける予定ってある?」
父が箸を止める。
「いや。なんでだ」
「……雨、降るらしいから」
根拠は薄い。
自分でも分かる。
母が天気予報の画面を見る。
「夜だけみたいよ」
「じゃあ、大丈夫だな」
父はそれ以上気にしない。
二人の反応は、穏やかだった。
止まらない。
止める必要が、そもそもないかのように。
悠真は食器を片づけながら、別の角度を探す。
「最近、忙しそうだし。今日は家で――」
「今日は仕事だ」
父は上着を手に取り、言い切った。
「早く出る」
予定は、変えられない。
いや、予定自体が、こちらの想定と噛み合っていない。
悠真は黙って頷いた。
焦りだけが、胸の奥に残った。
その日から、悠真は妙な感覚に包まれていた。
事故の日付は、確かに近づいている。
だが、止めるべき予定が、どこにも見当たらない。
冷蔵庫のメモを見ても、
家族の予定は書かれていない。
「今週末、どこか行く?」
何気なく聞いても、
「特にないわよ」
母はすぐにそう答える。
父に聞いても、
「仕事だ」
それだけだ。
悠真は、それ以上踏み込まなかった。
理由を説明できない以上、動きようがない。
違和感だけが、静かに積み重なる。
自分だけが、構えている。
自分だけが、過去の形をなぞっている。
――何を、止めればいい。
その問いに、答えは返ってこなかった。
ここには、事故へ至る流れそのものが存在していない。
代わりに、別のものが見え始めた。
家の中が、静かすぎる。
以前の静けさとは違う。
音がないのではなく、会話がない。
食卓で目が合わない。
必要な言葉だけが、短く交わされる。
ある夜、廊下で足が止まった。
居間から声が聞こえる。
「……このままは、無理だと思う」
母の声だった。
「分かってる」
父の声は低い。
「でも、急に決めることじゃない」
「急じゃないわ」
沈黙。
「もう、一緒に出かける必要もないでしょう」
その言葉で全てが繋がった。
事故の代わりに、
ここには別の分断が置かれている。
悠真は、息を潜めたまま立ち尽くした。
自室に戻り、ベッドに腰を下ろす。
止めようとした。
確かに、動いた。
だが、事故を避けたわけではない。
事故に至る道が、
最初から用意されていなかった。
自分の行動は、
何かを救ったわけでも、変えたわけでもない。
それでも、何もしなかったわけではない。
その事実だけがかろうじて残っていた。
数日後、両親に呼ばれた。
三人で、食卓に座る。
母が口を開く。
「大事な話があるの」
父は黙って頷いた。
「……離婚することにした」
声は静かだった。
感情は抑えられている。
悠真は、何も言えなかった。
「これからのことは、ゆっくり決める」
母が続ける。
「どちらについていくかも」
その言葉で、現実が輪郭を持つ。
選びたい。
だが、選べない。
事故の時と同じだ。
当事者なのに、決定権がない。
悠真は、テーブルの木目を見つめた。
――止めようとした。
――でも、何も救えていない。
その感覚だけが、深く沈んだまま、残った。




