第4話 後編
葬儀が終わった翌日、家の中は急に広くなった。
人がいなくなったわけではない。
物音が減っただけだ。
玄関に並んでいた靴は片づけられ、居間の時計だけが正確に秒を刻んでいる。
悠真は座布団に座り、湯のみを両手で包んだ。
「しばらくは、うちで暮らそう」
親戚の男がそう言った。
低い声で、決定事項を伝えるような口調だった。
「学校のこともあるしね」
その隣で、親戚の女が続ける。
視線は優しいが、どこか距離があった。
悠真は頷いた。
拒む理由も、主張する言葉もなかった。
「お願いします」
それだけ言って、頭を下げる。
それで話は終わった。
誰が引き取るか。
どこで暮らすか。
それらは、悠真が選ぶものではなかった。
決まったことを、受け取っただけだ。
親戚の家は、前の家より少し大きかった。
廊下はまっすぐで、床のきしむ音が違う。
台所から漂う匂いも、慣れない調味料のものだった。
「ここが、悠真の部屋ね」
案内された部屋は、来客用だったのだろう。
机と布団は用意されているが、生活の跡はない。
「足りないものがあったら言って」
「大丈夫です」
そう答えると、相手は少し困ったように笑った。
夕食は静かだった。
話題は天気やテレビのことばかりで、両親の話は出ない。
気を遣われている。
それは、はっきり分かった。
だが、それが悪いことだとは思わなかった。
居場所ではないが、居ていい場所ではある。
そのくらいの距離が、今はちょうどよかった。
学校に戻ると、空気が少し変わっていた。
「無理しなくていいからね」
担任は、いつもより低い声でそう言った。
クラスメイトも、必要以上に話しかけてこない。
親戚の家では、食事がきちんと用意される。
洗濯も、掃除も、気づけば終わっている。
「勉強は、大丈夫?」
「はい」
「困ったら言ってね」
「ありがとうございます」
感謝はしていた。
本当に助けられているとも思っていた。
だが、何かを頼みたい気持ちは、あまり湧かなかった。
踏み込めば、踏み込むほど、返せないものが増える気がした。
だから、受け取るだけにした。
それ以上は、望まなかった。
時間は、確実に流れた。
進学し、卒業し、働き始める。
親戚の家を出たのは、その少し後だった。
一人暮らしは、静かだった。
食事は簡単なもので済ませ、部屋は最低限に保つ。
仕事は真面目にこなした。
評価も悪くない。
それでも、何かが増えている感覚はなかった。
給料が上がっても、部屋を広くしても、
心のどこかは、ずっと同じ場所に留まっている。
ある夜、ふと思う。
――あの日、何かできなかったのか。
問いは、それ以上膨らまなかった。
答えを出す材料が、どこにもないからだ。
後悔とも違う。
予感でもない。
ただ、空白に触れただけだった。
年月は、静かに重なった。
特別な出来事は起きない。
仕事を続け、季節が巡る。
朝は同じ時間に起き、同じ電車に乗る。
帰りに立ち寄る店も、ほとんど変わらない。
体に違和感を覚えたのは、ある冬だった。
最初は疲れだと思った。
次に、年齢のせいだと考えた。
病院に行き、検査を受け、通院が始まる。
医師の説明は淡々としていた。
治療の選択肢も提示されたが、どれも決定的ではない。
仕事は続けた。
できることは、まだ多かった。
だが、少しずつ、できないことが増える。
階段を避け、重い物を持たなくなり、
休日は外出を控えるようになった。
親戚とは、年に数回連絡を取った。
「元気にしてるなら、それでいい」
受話器の向こうから聞こえる声は、いつも同じだった。
悠真も同じ調子で返す。
「大丈夫です」
それ以上の話はしない。
近況を並べ、天気の話をして、通話を切る。
それで十分だった。
部屋に残るのは、生活の痕跡だけだ。
家具は最低限。
写真は置かなかった。
夜、電気を消す前に、ふと天井を見る。
そこに、思い出が浮かぶことは少ない。
だが、消えたわけでもなかった。
最期の時間は、静かだった。
病室の天井は、どこか見覚えがある気がした。
だが、それがいつのものかは思い出せない。
呼吸は浅く、意識は途切れがちになる。
それでも、頭は不思議と冴えていた。
守れなかった。
その事実だけが、はっきりしている。
後悔ではない。
悔恨とも違う。
ただ、結果として残ったものだ。
この人生を、無駄だったとは思わない。
逃げたわけでも、投げ出したわけでもない。
抱えたまま、生きた。
それだけは、確かだった。
――次があるなら。
言葉にならない願いが浮かぶ。
今度は、ただ受け取るだけでは終わらせたくない。
選びたい。
関わりたい。
失う前に、手を伸ばしたい。
意識が遠のく。
光が滲み、輪郭がほどける。
落ちる感覚が、はっきりと戻ってきた。




