表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/12

第4話 前編

目を開けた瞬間、悠真は深く息を吸った。

肺が広がる感覚が、はっきりと分かる。


天井は低く、白い。

見覚えのある染みが、隅に残っている。


「……生きてるな」


独り言は、驚きより確認に近かった。

体を起こすと、関節がわずかに軋む。若いが、子どもではない。


襖の向こうで、食器が触れ合う音がした。


「悠真、起きてる?」


柔らかく、少し急かすような声。

母だと分かる距離感だった。


「起きてる」


返すと、襖が開く。


「朝ごはん、もうすぐよ」


「分かった」


それだけのやり取りだった。

だが、その声を聞いた瞬間、胸の奥で何かがほどけた。

両親がいる。


それだけで、今回は少し違うと感じた。


朝食の席には、父もいた。

新聞を広げたまま、湯気の立つ味噌汁に手を伸ばしている。


「今日は早いな」


紙面から目を上げずに言う。


「学校」


「そうか」


会話はそれで終わった。


食卓に並ぶのは、焼いた魚と白いご飯。

特別ではないが、欠けてもいない。


「帰り、少し遅くなる」


箸を置きながら父が言う。


「仕事?」


母は鍋の火を弱める。


「いや、用事」


「そう」


深掘りはしない。

それがこの家の会話だった。


家を出る時、母が声をかける。


「気をつけてね」


「うん」


振り返ると、二人は並んで立っていた。

よくある光景だ。


その日の予定は、いくつかあった。


放課後、家族で出かける。

父の運転で、少し遠くまで。


「今日だよな」


靴を履きながら、悠真が言う。


「そうよ」


母は玄関脇のカレンダーを指差した。

赤い丸が、一つだけ付いている。


記念日ではない。

誕生日でも、法事でもない。

ただの外出予定だ。


「夜には戻るわ」


「渋滞しそうだな」


父は車のキーを手に取り、肩をすくめる。


「時間には余裕あるだろ」


天気予報では、夜に雨が降るかもしれないと言っていた。

だが、それを気にする者はいなかった。


「傘は?」


「積んだ」


「なら大丈夫」


会話はそこで終わった。


車内は静かだった。


ラジオが低く流れ、ワイパーが一定のリズムで動く。

濡れたアスファルトが、フロントガラスの向こうで鈍く光っている。


悠真は後部座席に座り、流れていく景色を眺めていた。


「もうすぐだな」


父の声が前から届く。


「そうね」


母が短く応じる。


次の瞬間だった。


前方でブレーキランプが連なり、父がハンドルを切った。

体が前に引かれる。


衝撃。

鈍い音。

視界が白く弾ける。


体が浮き、次の瞬間に強く引き戻された。


父の体が前に崩れ、ハンドルに伏せたまま動かない。


母が振り返る。

一瞬、目が合った。


「悠真――!」


母は身を乗り出し、抱き寄せるように庇った。


次の衝撃で、視界が暗転した。


意識が戻った時、空気が違った。


 金属の匂い。

 焦げたような臭い。

 遠くで、人の声が重なっている。


「……意識ありますか」


 声は頭上から聞こえた。


体は重いが、指先はわずかに動いた。

救急車の天井が、視界に入る。

ランプの光が、一定の間隔で瞬いている。


「ご両親は――」


続きを聞く前に、理解してしまった。


父は即死。

母は、自分をかばって亡くなった。


救急隊員の説明は淡々としていた。

時間、衝撃、致命傷。

整理された情報が、順に並べられる。


泣き声は出なかった。

叫びもなかった。



ただ、日付だけが残った。


カレンダーにつけた、赤い丸。

ただの予定だったはずの一日。


――戻らない。


その事実が、ゆっくりと胸に沈んでいく。


転生は起きなかった。

この人生は、続く。


悠真は天井を見上げたまま、目を閉じた。

次に目を開けた時、世界は変わっていない。

だが、戻る場所はもうなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ