第14話⑬
戦争が終わってから、しばらくのあいだ。
街には、妙な落ち着きが漂っていた。
酒場では、話題が尽きない。
だが、語られる内容は定まらない。
「聞いたか? あの戦、剣一本で終わったらしい」
「いや、違う。光が走ったって話だ」
「兵が近づく前に、敵の陣が消えたって聞いたぞ」
誰も、同じ話をしていない。
だが、話の結末だけは一致していた。
戦争は、あの一戦で終わった。
それだけだ。
名は、先に広がっていく。
剣聖――その呼び名だけが、噂の中で形を持ち始める。
商人は道の安全を口にし、
貴族は抑止力として数え、
兵は、理解できないものとして距離を取る。
それぞれが、都合のいい形に解釈していた。
事実は、細部から削られていく。
残るのは、分かりやすい輪郭だけだ。
「剣聖がいる国」
その言葉は、いつの間にか前提になりつつあった。
当人が何を考えているのか。
そもそも、どういう存在なのか。
そうした問いは、噂の速度についていけない。
名だけが、歩いている。
本人を置き去りにしたまま。
噂は、やがて場を選ぶようになる。
酒場の卓を離れ、
商館の応接室へ、
貴族の私室へと移っていった。
そこで語られる剣聖の名は、
もはや戦場の逸話ではない。
「剣聖がいる限り、侵攻はないだろう」
「国境に兵を厚く置く必要はなくなる」
「抑止として、これ以上はない」
言葉は冷静で、感情はない。
評価は称賛ではなく、計算に近かった。
条約文の余白に、
明文化されない前提として、
剣聖の名が置かれる。
使節は遠回しに探りを入れ、
同盟国は沈黙を保つ。
敵対していた国々は、
剣聖の所在だけを確認しようとした。
それらすべてが、
本人の知らないところで進んでいく。
制度は、人を必要としない。
必要なのは、機能だ。
剣聖という名は、
一個人の力量を示す言葉だったはずが、
いつの間にか、国力の一部として扱われ始めていた。
家もまた、その流れを無視できない。
当主会議の席で、
誰かが口にする。
「剣聖を擁する家としてどう振る舞うべきか」
異論は出ない。
だが、同意もなかった。
剣で成り上がった家にとって、
剣聖という名は誇りだ。
同時に、それをどう使うかという問いは、
これまで一度も向けられたことがない。
名が、先に進んでいる。
制度も、家も、
その後を追うしかなかった。
名が動くことで、現場の判断も変わり始めていた。
国境線の警備計画は見直され、
侵攻を想定した演習は規模を縮小される。
理由は単純だった。
「最悪の場合でも剣聖がいる」
その一文が、
いくつもの想定と準備を不要にしていく。
兵站の担当者は不安を口にし、
老将は眉をひそめる。
だが、誰も声を荒げて反対はしない。
剣聖という名は、
議論を終わらせる言葉になりつつあった。
それは信頼ではない。
まして、理解でもない。
ただの省略だ。
本来なら重ねられるべき検討や犠牲を、
一つの名前が肩代わりしている。
その事実に気づいている者ほど、
何も言えなくなる。
制度は、楽な方へ流れる。
名がそこにあれば、なおさらだ。
悠真は、その話を後から聞いた。
報告は簡潔で、
意見を求める形を取っている。
だが、選択肢はすでに並べられていた。
名は、すでに動いている。
止める理由も、
急いで決める理由も、
彼にはなかった。
屋敷は、静かだった。
戦後の喧騒はここまで届かない。
書簡も使者も増えてはいるが、
廊下の空気そのものは、以前と変わらない。
悠真は、いつもの場所に腰を下ろしていた。
剣は手の届くところにある。
抜く必要も、隠す必要もない距離だ。
外で語られている話は、耳に入っている。
噂も、評価も、利用のされ方も。
だが、それらはどこか遠い。
剣を振った感触は、まだ体に残っている。
戦場の音も、匂いも、忘れてはいない。
それでも、外で流通している剣聖の姿は、
そのどれとも一致しなかった。
語られているのは、
一振りで戦争を終わらせる力。
国境を守る抑止。
国の象徴。
どれも間違いではない。
だが、正確でもない。
剣は、自分の手にある。
振ったのも、自分だ。
それでも、その剣が
どの場で、どんな意味を持つのかは、
すでに自分の手を離れ始めている。
怒りはない。
戸惑いも、思ったほどではなかった。
理解は、している。
名は、人の手を離れたときに
初めて、機能として動き出す。
剣聖という名も、
例外ではないというだけのことだ。
悠真は、剣に触れない。
触れなくても、そこにあると分かっている。
自分が動かなくても、
名は、勝手に進んでいく。
それを止める理由も、
今すぐ合わせる理由も、
まだ見つからない。
考えないわけではない。
もし、このまま名が先行し続ければ、
いつか自分は、
判断の外に置かれた存在になるだろう。
剣を振るうかどうかではない。
振るう前提として数えられる。
それは、
使われることとは違う。
だが、選ばれなくなることとも違う。
自分がここにいる理由が、
自分以外の都合で決められていく。
その感覚だけが、
わずかに引っかかっていた。
だが、今はまだ、
それを問題にする段階ではない。
だから、今はここにいる。
剣を持ち、
名を手放したまま。




