第14話⑩
屋敷の朝は、変わらず始まる。
使用人たちは静かに動き、廊下には無駄な音が残らない。
主の部屋へ向かう足取りも、これまでと同じだった。
声をかけられる相手も、変わっていない。
父だ。
剣聖の名が悠真に渡ってからも、屋敷の中心は動いていなかった。
指示が出され、判断が下され、決定が積み重なる。
そのすべてが、父を起点に回っている。
悠真は、その流れの外に立っている。
食事の席で席次が変わったわけではない。
会合に同席することはあっても、発言を求められることはない。
「剣聖様」
そう呼ばれることは増えた。
だが、それだけだった。
敬意はある。距離もある。
しかし、責任は渡されていない。
家の者たちは、悠真を立てる。
だが、頼らない。
決めるべき場面では、視線は父へ向かう。
悠真に向けられるのは、その後だ。
確認するような目。
あるいは、気遣うような目。
それ以上でも、それ以下でもない。
悠真は剣を腰に帯びたまま、廊下を歩く。
だが、剣を振る場所はない。
振る理由もない。
剣聖の名は、ここにある。
だが、屋敷の歯車は、その名を必要としていなかった。
立場は、まだ空白のままだ。
会合は、淡々と進んでいた。
帳面が開かれ、数字が読み上げられる。
収穫量、納税、修繕の進捗。
どれも、家にとっては重要だが、剣とは関係のない話だった。
悠真は席に着き、最後まで聞いている。
だが、意見を求められることはない。
求められていないから、口を出さない。
父が問いを投げ、家老が答え、結論がまとまる。
その流れは滞りなく、剣聖の有無とは無関係に進む。
誰かが一瞬だけ、悠真を見る。
だが、それは期待ではない。
「聞いているか」という確認に近い。
剣聖としての力が、ここで役に立つ場面はない。
剣で解決できる問題が、最初から議題に上がらない。
それは当然だった。
この家は、剣だけで成り立っているわけではない。
土地があり、人がいて、関係が積み重なっている。
剣は、最後の手段だ。
だが、最後の手段が必要になる場面は、そう多くない。
会合が終わると、家老の一人が悠真に一礼する。
敬意を欠いてはいない。
だが、用件はない。
「お疲れでしょう」
それだけ言って、去っていく。
悠真は返礼し、立ち上がる。
剣聖としての判断を求められなかったことに、違和感はない。
むしろ、自然だった。
剣は完成した。
だが、この家を動かしているのは、剣ではない。
誰かが怠っているわけではない。
誰かが排除しているわけでもない。
剣と家の役割が、元から違っているだけだ。
悠真は廊下を歩きながら、腰の剣に視線を落とす。
この剣は、必要な時には抜かれる。
だが、今ではない。
今のこの家にとって、
剣聖は「使う存在」ではなかった。
日が傾き、屋敷の影が長く伸びる。
庭に面した廊下で、悠真は立ち止まった。
特別な理由はない。足が止まっただけだ。
庭では、いつも通りの手入れが続いている。
剪定された枝、均された土。
誰かが命じたわけではなく、ただ日常として行われている作業だ。
剣聖の名が継がれても、変わらないものは多い。
父は、変わらず当主の役目を果たしている。
家の者たちも、これまで通りに動いている。
悠真は、その中にいる。
だが、中心ではない。
剣を極めたからといって、
家の在り方が即座に変わるわけではない。
変える理由も、求められていない。
悠真は、剣を抜かない。
抜く場面がないからだ。
剣が完成していることを、
誰かに示す必要もなかった。
すでに示してしまった後なのだから。
屋敷の中を歩いても、
呼び止められることはない。
判断を仰がれることもない。
剣聖としての名は、確かにここにある。
だが、それは役割ではなく、事実として置かれているだけだ。
何かを始めるには、
まだ条件が足りていない。
だが、足りないものが何なのかも、
今ははっきりしていなかった。
焦りはない。
不満もない。
ただ、このまま時間が過ぎていくのだと、
そう理解しているだけだ。
夕暮れの風が、庭を渡る。
葉が揺れ、音が消える。
悠真は一度だけ、腰の剣に触れ、
すぐに手を離した。
剣は、そこにある。
人生は、まだ動いていない。
それが、今のすべてだった。




