第14話⑨
継承の場は、静かだった。
広間に並ぶ者たちの視線は揃っているが、そこに期待はない。儀式は何度も見てきた。
勝敗が揺らいだことも、波乱が起きたこともない。
今回も同じ――そう信じて疑わない空気が、最初から満ちていた。
当主の座に就く条件は、すでに満たされている。
六ノ式に至った時点で、継承は確定していた。
だからこれは、確認だ。
形を整えるための一手順にすぎない。
家老の一人が、短く告げる。
「――始める」
誰も、止めようとしない。
誰も、問いを挟まない。
父は前へ出た。剣を手にする姿に迷いはないが、鋭さは抑えられている。
勝つためではない。役目を終えるための構えだった。
悠真は、少し距離を取って立つ。
構えない。
剣を抜く気配もない。
それを見て、誰かが内心で思った。
――若い。
――慎重すぎる。
――儀式に慣れていない。
そういう評価が、自然に浮かぶ場だった。
父は何も言わない。
問いもしない。
この家では、剣がすべてを語る。
だから、言葉はいらない。
勝敗は決まっている。
そう思われたまま、継承の対決は始まろうとしていた。
合図はなかった。
父が一歩、踏み出す。
八ノ式――完成度の高い型だった。長年、磨き続けてきた剣だと一目で分かる。迷いも、遅れもない。
それでも、悠真は動かない。
構えない。
間合いを詰めない。
剣を抜く気配すら見せない。
次の瞬間、父の剣が走った。
――はずだった。
音がしなかった。
剣がぶつかる音も、風を裂く音もない。
ただ、父の動きが止まった。
一拍遅れて、広間の空気が揺れる。
誰かが瞬きをした。
父は、その場に立ったまま、剣を落とした。
床に触れる音だけが、やけに大きく響く。
何が起きたのか、すぐに理解できた者はいない。
悠真は、いつの間にか父の懐に立っていた。
剣は、抜かれている。
だが、振られた様子はない。
型も、軌道も、見えなかった。
父は、数呼吸置いてから、自分の身体を見下ろす。
傷はない。血も出ていない。
それでも――
剣を続けることができない。
力が抜けたわけではない。
恐怖でもない。
ただ、終わっていた。
「……そうか」
父は、静かに息を吐いた。
自分が負けたことを、ようやく理解する。
十ノ式。
技ではない。
振るった結果ですらない。
剣と人の区別が消えた、その一瞬。
それだけで、勝敗は決していた。
広間にいた者たちは、誰一人、声を出せなかった。
説明できる者がいなかった。
再現できる者もいなかった。
ただ一つ、全員が同じ事実を理解していた。
――剣聖は、ここに立っていない。
沈黙が、広間を満たした。
誰も動かない。
誰も、次の言葉を探さない。
倒れ伏す者はいない。
血も流れていない。
だが、勝敗は疑いようがなかった。
父は、ゆっくりと膝をつく。
礼ではない。敗北を示す形でもない。
ただ、剣を置いた。
その動作だけで、すべてが終わったと分かる。
家老の一人が、口を開きかけて――言葉を失う。
どう呼べばいいのか、分からなかった。
剣聖。
その称号は、ここにある。
だが、それを支えていた意味が、崩れている。
父は、顔を上げ、悠真を見る。
そこに悔恨はない。安堵とも違う。
長い間、胸に引っかかっていたものが、静かに外れていた。
「……受け取れ」
短い言葉だった。
称号を渡すための儀礼も、形式も続かない。
剣は、もう証明してしまっている。
悠真は一歩下がり、剣を収める。
受け取ったのは、名でも座でもない。
この家が、剣をどう扱ってきたか。
どこまでが人で、どこからが剣か。
それらすべてを、越えたという事実だけだった。
広間の者たちは、視線を落とす。
畏怖ではない。尊敬とも違う。
理解したのだ。
自分たちが立っている場所が、変わったことを。
この先、剣聖とは何を指すのか。
誰も、答えを持たない。
だが、少なくとも一つだけは確かだった。
ここにいるのは、
剣聖の当主ではない。
剣という生き方を、終えた者だ。
悠真は、広間を見渡し、何も言わない。
言葉は、もう必要なかった。
剣の人生は、ここで区切られた。
そして――
人としての人生が、静かに続いていく。




