第14話⑧
剣祖の修行地で、八年が過ぎた。
岩山に吹く風は、何度も向きを変えた。
洞窟の入口に差し込む光も、年を追うごとに角度を変えていく。
最初の頃は、冬の寒さが骨に残った。
だが、いつしか季節を意識しなくなった。
雪が積もり、解け、
雨が降り、乾く。
苔が増え、削れ、
岩肌の色がわずかに変わる。
そのすべてを、同じ場所で見続けていた。
悠真は、八年間、ここに居た。
何かを待っていたわけではない。
完成の瞬間を数えていたわけでもない。
ただ、ここを離れる理由がなかった。
剣を振る日もあれば、
一日、剣に触れない日もあった。
洞窟の奥に残された剣痕は、変わらない。
新しい痕が刻まれることもない。
それでも、空気は変わっていた。
違うのは、場所ではない。
ここに立つ人間のほうだ。
かつて意識していた呼吸は、
今では、意識の外で整っている。
剣を握らなくても、
刃の位置が分かる。
構える必要はない。
振る理由もない。
剣は、そこにある。
それだけで、十分だった。
八年という時間を、
長いと感じることはなかった。
気づいた時には、
すでに、そうなっていた。
悠真は、岩山を見上げ、静かに息を吐く。
ここで過ごす時間は、
もう、終わりに近づいている。
岩山に、人が近づかなくなっていた。
最初のうちは、狩人が通りがかった。
山菜を採りに来る者もいた。
洞窟の入口を覗き込み、何もなさそうだと去っていく。
だが、いつしか足が止まる。
理由を聞かれても、誰も答えられない。
ただ、無意識に距離を取る。
近づくと、息が乱れる。
音が、思ったよりも遠くに感じられる。
剣を抜いた覚えはない。
構えたこともない。
それでも、ここに立つ人間の存在だけが、
周囲の感覚を歪めていた。
岩肌に残る古い剣痕は、変わらない。
新しい痕が増えることもない。
それなのに、岩山は以前より静かだった。
風の音が、途中で途切れる。
洞窟の奥へ進もうとした獣が、
入口で足を止め、引き返す。
悠真は、それを見ても動かない。
何かを放っている自覚はなかった。
何かを抑えているつもりもない。
剣は、腰にある。
だが、使われる前提で存在していない。
剣を「持っている」という感覚が、
いつの間にか薄れていた。
洞窟の最奥に残る一条の痕を、
改めて見に行くことはしない。
確かめる必要がないからだ。
そこに近づかなくても、
違いは分かる。
九ノ式の痕と、十ノ式の痕。
かつては、比較していた。
今は、比較する視点そのものが消えている。
剣は、外に向けて使うものではなくなっていた。
振るうためにあるのではない。
ここに在る。
それだけの存在になっている。
悠真が歩くと、
小石が一つ転がる。
それだけで、十分だった。
洞窟の前に立ち、悠真はしばらく動かなかった。
ここに来た日のことを、思い出そうとしたわけではない。
思い返す必要が、もうなかった。
剣祖の修行地は、変わらない。
岩山の形も、洞窟の奥に残る痕も、八年前と同じだ。
変わったのは、ここに立つ理由だけだった。
かつては、先が見えなかった。
九ノ式の先に何があるのか、確かめるために立っていた。
今は違う。
洞窟の奥を見なくても、分かる。
剣痕を前にしなくても、揺らがない。
ここで剣を振る必要がない。
確かめる必要も、試す必要もない。
ここに留まる理由が、消えていた。
悠真は、腰の剣に手を置く。
抜かない。
ただ、触れる。
それだけで、剣の位置も、重さも、刃の向きも分かる。
かつてなら、意識を向けなければならなかった感覚だ。
今は、呼吸と同じ場所にある。
剣祖が、ここを去った理由が分かる気がした。
完成したからではない。
満足したからでもない。
ここでは、もう得るものがなかった。
だから、外へ戻った。
悠真は、洞窟に背を向ける。
振り返らない。
名残もない。
岩山を下る足取りは、軽くも重くもない。
ただ、迷いがない。
行き先は、決めていなかった。
それでも、向かう先は一つしかない。
家だ。
剣を学んだ場所ではなく、
剣を使うべき場所へ。
悠真は、山を下りながら、静かに息を整える。
剣の時間は、ここで終わった。
これから始まるのは――
剣を持ったまま、生きる人生だ。




