第14話⑥
屋敷の稽古場は、よく整っていた。
剣を振る音が響く時間も、掃除の手順も、剣の置き方も――
すべてが決まっている。無駄はなく、乱れもない。
長く続いてきた家の剣が、ここにある。
悠真は六ノ式までを通し、剣を収めた。
息は乱れない。体のどこにも無理はない。
七ノ式に入ると、動きが変わる。
刃は通るが、次へは繋がらない。八ノ式も同じだった。
父が止まった場所で、剣は自然に収束する。
「……守られている」
誰に言うでもなく、そう感じた。
この剣は、家を守るために磨かれてきた。
当主が立ち、次に渡すための剣だ。六ノ式までで完成し、
それ以上は義務ではない。だからこそ、形が崩れない。
父は八ノ式までを通した。
それは限界ではなく、役割の終点だった。
悠真は九ノ式に踏み込まない。
踏み込めば、壊れる。
稽古場の外で、使用人が動く音がした。
いつも通りの朝。いつも通りの屋敷。
だが、ここにはないものがある。
勝つための剣だ。
十ノ式は、この流れの先にはない。
守る剣の延長では、届かない。
悠真は剣を置き、稽古場を見渡した。
整いすぎている。ここでは、これ以上先に進めない。
結論は、すでに出ていた。
父と向き合うのは、稽古ではなかった。
剣を抜かず、並んで立つ。
同じ方向を見ているはずなのに、視線の先が違う。
そんな感覚だけが、稽古場に残っていた。
稽古場の奥、壁に掛けられた古い系図に視線を向ける。
そこには歴代当主の名が並び、最上段に一つだけ線の引き方が違う名があった。
初代当主。
この家で、ただ一人――十ノ式に至った剣士。
「……やはり、そこか」
父の声は低い。
驚きはなかった。
「初代の十ノ式は、この家で磨かれた剣じゃない」
悠真は頷く。
「当主になる前に、家を出て剣だけを追った」
父は続ける。
「戻ってきたときには、剣が変わっていた。だから、十ノ式に至れた」
その事実は、家では語られない。
継承に必要なのは六ノ式までで、それ以上は“余分”だからだ。
「剣祖の墓がある。初代が剣を磨いた地もそこに近い」
父は、そこまで言って、言葉を切る。
「俺は、そこへ行かなかった。行く理由がなかったからな」
八ノ式で満足した者の言葉だった。
悠真は、静かに答える。
「俺には、理由があります」
父は、視線を逸らさなかった。
「……そうだな」
それ以上、何も言わない。
止める言葉も、条件もない。
同じ剣を持ち、
違う地点を目指している。
ただ、それだけの違いだった。
父は、しばらく剣の柄に手を置いたまま動かなかった。
抜くでもなく、離すでもない。
「この家の剣はな……」
低く、噛みしめるように言う。
「“勝つため”に磨かれてきた剣じゃない。負けないための剣だ」
守る。
残す。
次へ渡す。
そのために、形が定められ、終点が決められている。
「だから、六ノ式で完成する。そしてそれ以上は、余計になる」
父は、八ノ式で止まった自分の剣を否定しなかった。
役割を果たした剣だと、理解している。
悠真は、その言葉を受け止める。
だが、自分の剣は違う。
負けないためでは足りない。
勝たなければ、意味がない。
守るだけでは、届かない相手がいる。
「初代は……」
父は、そこで一度言葉を切った。
「家の外で剣を変えたんだ」
それは、継承の系譜ではなく、逸脱だった。
悠真は、そこでようやく確信する。
十ノ式に必要なのは、才でも努力でもない。
剣の目的そのものを、置き直すことだ。
準備は、時間をかけるほどのものではなかった。
剣一本。
替えの衣。
最低限の金。
それだけで足りる。
使用人たちは何も聞かない。
屋敷では、行き先よりも理由のほうが重い。
悠真は稽古場に立ち寄る。
当主の剣、その隣の空いた位置。
そこに剣を置くには、まだ早い。
壁に刻まれた古い紋章に目を向ける。
初代当主の印だ。
ここから、すべてが始まった。
門を出る前に、振り返ることはしなかった。
戻る場所は、分かっている。
向かうのは――
剣祖の墓。
初代当主が、家も称号も一度置き、
剣だけを追った場所。
十ノ式は、そこにある。
悠真は歩き出す。
家を離れるためではない。
剣の始まりへ、戻るためだ。
勝てる剣を得なければ、意味がない。
それだけは、揺るがない。
剣を携え、
初代が通った道へ。
屋敷を出てからしばらく、足は自然と山の方へ向いていた。
道は整っていない。だが、迷う感覚はなかった。
初代当主が剣を捨て、名を捨て、家を離れたときも――
同じ道を通ったのだと、そう思えた。
剣祖の墓は、誰かに教えられた場所ではない。
家の記録にも、詳しい道順は残っていない。
それでも、剣が向かう先は一つだった。
この家の剣は、六ノ式で完成する。
八ノ式は、その延長だ。
だが十ノ式だけは、そこにない。
ならば、始まりへ戻るしかない。
剣を「振る」前の場所。
剣を「持つ」前の地点。
初代が、人として剣を追い、
最後に剣と一つになった場所。
悠真は、そこで答えを見つけるつもりだった。




