第14話⑤
屋敷に戻ってから、数日が過ぎていた。
学院とは違い、ここでは何も変わらない。
朝の動線、剣を置く位置、使用人の距離感――すべてが、以前のままだ。
ただ一つ違うのは、悠真の扱いだった。
「こちらへ」
そう言って案内される場所が、自然と奥になる。
剣の手入れが終わる頃合いも、誰かに告げられる前に分かる。
誰も、理由を口にしない。
当主である父も同じだった。
顔を合わせれば、短い言葉を交わす。体調、予定、それだけだ。
だが、稽古場に立つと空気が変わる。
父は剣を取る。
構えは、変わらない。
一ノ式から始まり、二ノ式、三ノ式。
型は整っているが、力で押す剣ではない。流れと角度で、刃を通す。
六ノ式に入ると、周囲の気配が薄れる。
そこから先は、当主の剣だ。
父は七ノ式までを通し、八ノ式で止めた。
それ以上は、踏み込まない。
悠真は黙って見ている。
その先がないことも、理由も、聞かない。
「今日は、ここまでだ」
父は剣を収める。
息は乱れていないが、わずかに肩が重い。
「……お前は、どう思う」
突然の問いだった。
剣についてでも、継承についてでもない。
悠真は少し考え、答える。
「十分だと思います」
父は、短く笑った。
「そうか」
それ以上は、続かなかった。
使用人たちは、いつも通りに動く。
だが、剣の置き場だけが、少しだけ変えられていた。
悠真の剣が、当主の剣に近づいている。
誰も命じていない。
誰も確認していない。
それでも、屋敷はそう動いていた。
悠真は剣を手に取り、静かに鞘へ戻す。
何かを決める必要は、まだない。
だが、この家では――
剣が進めば、立場も進む。
それだけは、昔から変わらなかった。
翌日の稽古は、朝からだった。
父はすでに稽古場に立っている。
声をかけられる前に、悠真も剣を取った。
「六ノ式まででいい」
父はそう言い、構えを取る。
それ以上を求めない言い方だった。
一ノ式。
刃を合わせ、流し、通す。
二ノ式。
踏み込みの角度が変わる。力は使わない。
三ノ式、四ノ式。
剣がぶつかる音が消えていく。代わりに、位置と間合いだけが残る。
五ノ式。
父の剣が、わずかに速くなる。
六ノ式。
悠真は、ここで止めた。
それ以上を出す理由がない。
この家で問われる剣は、ここまでだ。
父も、踏み込まない。
刃が交わる。
勝敗は、どちらにもつかない。
「……問題ないな」
父はそう言って剣を下ろす。
評価でも、確認でもない。ただの事実だった。
使用人の一人が、稽古場の外で一礼する。
当主にではない。
二人に、だ。
誰も言葉を挟まない。
だが、稽古場の扱いが変わっていることに、悠真は気づいていた。
六ノ式までを通す稽古が、日課として組み込まれている。
それは当主と、次の者のための時間だった。
父は、剣を磨きながら言った。
「八ノ式までは、剣だ。だが、その先は……」
言葉を切り、首を振る。
「俺には、届かなかった」
その声音に、悔しさはない。
あるのは、受け入れだけだ。
「だが、家を継ぐには十分だ」
「それ以上は、望まれていない」
悠真は頷く。
それが、この家の論理だ。
父は剣を置き、稽古場を後にする。
背中は、以前と変わらない。
ただ一つ違うのは――
もう、振り返らないことだった。
悠真は一人、稽古場に残る。
剣を握り、六ノ式の構えを取る。
ここまでは、家の剣。
ここから先は、まだ出さない。
出す必要がないからだ。
家は、すでに動いている。
あとは、流れに抗わないだけだった。
屋敷の中で、配置が変わった。
誰かが命じたわけではない。
だが、剣の置き場、稽古の時間、呼ばれる順番――すべてが、以前とは違っていた。
当主の隣に立つことが増え、
その背を追う立場から、並ぶ立場へと移っている。
父は、それを止めない。
ある夜、二人きりになった稽古場で、父は短く言った。
「次はお前が当主の位置に立て」
意味は明確だった。
譲る準備が、始まっている。
だが、悠真は剣を取らなかった。
「まだです」
それだけを告げる。
父は、問い返さなかった。
否定もしない。
「……そうか」
短い返答のあと、父は剣を置いた。
家を継ぐ条件は、満たしている。
六ノ式までの剣は、すでに通っている。
だが、それで終われるほど、剣は浅くなかった。
悠真は稽古場に残り、一人で構えを取る。
七ノ式。
八ノ式。
父が止まった場所だ。
剣は通る。
だが、足りない。
九ノ式に踏み込もうとして、止める。
まだ、形にならない。
十ノ式――
そこに至らなければ、勝てない。
理由は単純だった。
この先に、倒すべきものがある。
今の剣では、届かない。
家を継ぐことと、剣を極めることは別だ。
当主になれるかどうかと、勝てるかどうかは関係ない。
悠真は剣を収め、深く息を吐いた。
満足は、ない。
この家での立場は、ほぼ定まった。
だが、剣はまだ途中だ。
父はすでに悟っている。
自分は八ノ式までだということを。
ならば――
その先に進む者が必要になる。
悠真は、稽古場の中央に立ち、もう一度構える。
継承は、いつでもできる。
だが、勝つための剣は、今はまだない。
剣聖という名が、重く感じられる。
それでも、進む理由は十分だった。
ここで立ち止まれば、
次はない。




