第14話③
学院は、剣士のための場所ではなかった。
それは門をくぐった瞬間に、はっきりと分かる。
剣を帯びている者は確かに多いが、誰もがそれを誇示してはいない。
話題の中心は、家格、政策、婚姻、領地――剣はあくまで付随物に過ぎなかった。
ここは、貴族のための学び舎だ。
統治し、交渉し、決断するための知を身につける場所。
剣は礼法の一部であり、武の嗜みでしかない。
悠真がその中に立つと、空気がわずかに揺れた。
「……剣聖の家の」
「剣は凄いらしいが……」
囁きはすぐに、別の色を帯びる。
「だが、ここは学院だ」
「学問について来られるのか?」
剣で名を知られている者ほど、逆に距離を取られる。
この場所では、それが自然だった。
悠真は気にしない。
受付で名を告げ、配布された教材と予定表を受け取る。その動きに迷いはなく、手順も早い。
初日の講義は、歴史と法だった。
教官の問いかけは、基礎をなぞるものではない。
前提を理解していることを前提に、解釈と判断を求めてくる。
「この条文が作られた背景を述べよ」
「当時の政情を踏まえ、別案があり得たか」
周囲が筆を止め、考え込む。
悠真は、少しだけ考え、静かに答えた。
「あります」
「ただし、当時の権力構造では採用されません」
理由は簡潔だった。
感情も、余計な言葉もない。
教官は一瞬、間を置き、頷く。
「……正しい」
ざわめきが、遅れて起きる。
剣の話ではない。
それでも、空気が変わった。
昼休み、距離を取っていた視線が、少しだけ近づく。
「……剣だけじゃないのか」
「いや、むしろ……」
悠真は食事を終え、次の講義へ向かう。
歩きながら、今日の予定を頭の中で整理する。
ここは屋敷ではない。
剣を振るう場所でもない。
だが、理解すること、判断すること、選択すること――
それらは、これまでの人生で何度も繰り返してきた。
学院は、彼にとって未知の場所ではなかった。
ただ、舞台が違うだけだ。
その日の最後に行われたのは、儀礼的な剣の演習だった。
形式通りの動き。
形式通りの評価。
だが、悠真が一太刀を置いた瞬間、場の空気が再び揺れる。
「……今のは」
剣の話と、学問の話。
二つが、同じ人物に重なり始める。
その違和感だけが、静かに学院に残った。
学院で剣が振るわれる機会は、多くない。
それは訓練ではなく、確認のためのものだ。
礼法の延長であり、貴族として最低限の武を備えているかを示す場にすぎない。
勝敗に意味はなく、派手さも求められていない。
その日も、本来は淡々と終わるはずだった。
「次、前へ」
教官の声に促され、数名が順に進み出る。
形式通りの構え、形式通りの踏み込み。剣は交わるが、深く踏み込む者はいない。
悠真の名が呼ばれたとき、周囲にわずかなざわめきが走った。
「剣聖の家の……」
「形式は守れるのか?」
問いは、期待よりも確認に近い。
悠真は前へ出る。
構えは、学院で教えられた通りだ。余計な力は入れない。
合図。
相手が一歩踏み込む。
その動きが終わる前に、悠真は前に出ていた。
一太刀。
刃は触れていない。
だが、相手の剣は止まり、体勢が崩れる。
「……そこまで」
教官の声が、わずかに遅れた。
演習場が静まり返る。
儀礼的な剣の場で、本来起こるはずのない“結果”だった。
「今のは……」
「形式の範囲だが……」
教官たちは言葉を探す。
否定はできない。だが、評価の仕方も決まっていない。
次の者が出る。
同じように、終わる。
力を競う場ではない。
技を誇る場でもない。
それでも、悠真の剣は、すべてを終わらせてしまう。
「儀礼で、ここまで……」
「実戦だったら……」
誰かがそう呟き、すぐに口を閉じた。
ここは実戦を語る場ではない。
悠真は剣を収め、一礼して列に戻る。
息は乱れていない。
やったことは、一つだけだ。
判断し、通した。
それだけで、場の前提が揺らいだ。
学院は学問の場だ。
だが、その日以降――
剣の話題から、悠真の名が消えることはなくなった。
午後の講義は、政治史だった。
年代を暗記しているかを問うものではない。
出来事の因果を整理し、そこから判断を引き出す内容だ。
教官は、答えを一つに絞らない問いを好んで投げてくる。
「この内乱が長期化した要因を三つ挙げよ」
「そのうち、回避可能だったものはどれか」
周囲が一斉に筆を走らせ、やがて止まる。
書ける者もいるが、多くは途中で詰まっていた。
悠真は少し考え、手を挙げた。
「回避できたのは一つです」
教官が視線を向ける。
「理由は?」
「権力構造が固定される前だからです。外部介入の余地がありました」
淡々とした答えだった。
だが、教官はすぐに頷かなかった。
「では、なぜ実行されなかった?」
「介入した側が、利益を得られなかったからです」
教官が、ゆっくりと息を吐いた。
「……続けて」
「短期的な損失を嫌い、長期的な安定を捨てました。当時の選択としては合理的です」
合理的――その言葉に、教室が静まり返る。
善悪ではなく、判断として整理された答えだった。
別の講義では、法の解釈が問われた。
「この条文を、そのまま適用すると問題が生じる。代替案は?」
悠真は立ち上がる。
「条文は変えず、運用を分けます」
「権限を一時的に委譲し、例外を常態化させない」
教官が、思わず笑った。
「……君、どこでそれを?」
質問ではなかった。
確認でもない。
評価だった。
周囲の視線が変わる。
剣を見ていた目が、今は別のものを測っている。
「剣だけじゃない」
「いや……判断が、違う」
休憩時間、距離を取っていた生徒たちが、少しずつ近づく。
「さっきの答えだが……」
「別の解釈は?」
悠真は短く答える。
必要なことだけを。
誰かが感嘆し、誰かが眉をひそめる。
評価は、ここでも一枚岩にならない。
教官席では、低い声が交わされていた。
「剣だけの人材じゃない」
「だが、学者でもない」
「……では、何だ?」
問いは、宙に残る。
悠真はそれを聞いていない。
次の講義へ向かいながら、思考を切り替える。
剣も、学問も、判断も。
やるべきことを、やっただけだ。
だが学院は、すでに理解し始めていた。
――評価軸が、一つでは足りない存在だと。
学院での評価は、静かに定まっていった。
成績表に並ぶ数値は、どの科目も上位だった。
特筆すべき点があるとすれば、余白だ。
剣の演習に関しては、簡潔な一文だけが添えられている。
――基準外。
称賛でも否定でもない。
ただ、学院の枠組みでは測れないという意味だった。
それ以上の言葉は、必要とされなかった。
学院は、未来を決める場所ではない。
貴族として生きるための教養を整え、社会に戻る準備をする場だ。
多くの者は、いずれ家へ戻る。
家業を継ぐ者もいれば、家名の一部として役割を果たす者もいる。
それは、特別なことではない。
悠真も、その一人だった。
剣が強いからといって、進路が変わるわけではない。
学問ができるからといって、別の道が用意されるわけでもない。
学院は、ただ確認しただけだ。
彼が、すでに足りているということを。
中庭を歩く悠真に、以前のような値踏みの視線は向けられない。
代わりにあるのは、距離だ。
「完成している」
「これ以上、ここでやることはない」
そんな空気が、自然と広がっていた。
悠真は気に留めない。
剣を振り、講義を受け、必要なことを終える。
それだけだ。
学院の門は、学ぶための入口であり、
戻るための出口でもある。
悠真は、その出口を前に立ち止まらなかった。
ここで何かを決める必要はない。
決めるべきことは、別の場所にある。
学院での役割は、すでに終わっていた。




