第14話②
朝の稽古場は、いつもより人が多かった。
悠真が姿を見せると、会話が一斉に止まる。視線が集まり、わずかに道が空く。
その動きに、誰かが指示を出したわけではない。
そうなるのが、当たり前になっていた。
「次は、坊ちゃんで」
門下の一人が声を上げる。
悠真は頷き、前へ出た。
相手は年上だ。体格もある。だが、構えを取る前に、周囲の空気が変わる。
期待と、緊張が混じった重さが、場を満たしていく。
始まりの合図は短い。
踏み込み。
一拍。
それで、勝負は終わった。
刃が触れる直前で止まり、相手は動きを失う。
誰もが息を呑む中、悠真は剣を下ろした。歓声は起きない。
ただ、ざわめきが遅れて広がる。
「……やっぱりだ」
「次の剣聖、だな」
囁きが、背中に刺さる。
悠真は振り返らない。
稽古場の端で、父が立っていた。
剣聖は、腕を組みもせず、剣にも触れない。ただ、結果を見ているだけだ。
頷きもしなければ、眉を動かすこともない。
母は一歩下がった位置から、全体を見渡していた。視線が交差した瞬間、悠真は小さく会釈する。
母はそれに気づき、何も言わずに視線を戻した。
次の相手が名乗り出る。
悠真は位置を変え、再び剣を構える。
期待は、もう前提だった。
稽古が進むにつれて、場の空気ははっきりと変わっていった。
最初は偶然だと思われていた。
次に、才能だと囁かれた。
そして、三人目が終わったあたりで、誰もが理解する。
――次元が違う。
悠真は、同じ動きを繰り返していない。
相手に合わせて、間合いを変え、踏み込みを変え、刃の角度を変える。
一度見た構えは、次には通用しない。
「今の、見えたか?」
「いや……見えなかった」
年上の門下生が、剣を下ろしたまま立ち尽くしている。
勝敗は明確だった。力負けでも、技負けでもない。ただ、最初から成立していなかった。
次に出てきたのは、さらに上の世代だった。
悠真よりも二回りは体格が違う。
合図と同時に、相手が踏み込む。
悠真は動かない。
一歩。
半歩。
刃が届く直前、悠真の剣が置かれる。
振られていない。だが、そこにある。
次の瞬間、相手の体勢が崩れ、足が止まった。
「……終わりだ」
誰かの声が遅れて届く。
相手は息を整えながら、静かに頭を下げた。
「……参った」
歓声は起きなかった。
驚きと困惑が、場を支配している。
だが、剣聖の前では、その剣は決まらない。
悠真が踏み込めば、父は半歩ずらす。
力を乗せれば、剣がそこにない。
速さを上げれば、先に終わっている。
勝てないわけではない。
だが、届かない。
「……今のは?」
門下の一人が、思わず声を漏らす。
剣聖は答えない。
ただ、剣を戻し、次の稽古を促す。
悠真は剣を下ろし、息を整える。
理解はできない。だが、否定もしない。
自分の剣は、通る。
それは事実だ。
それでも、この場では、別の剣が成立している。
その違和感だけが、静かに積み上がっていった。
稽古が終わると、人は自然と散っていった。
称賛の言葉を投げる者もいれば、距離を取る者もいる。
どちらも、悠真にとっては同じだった。
剣を振る場が終わっただけで、何かが解決したわけではない。
父は、最後まで多くを語らなかった。
剣を収め、稽古場の端に立ったまま、悠真を一度だけ見る。
それだけで、十分だった。
母が近づいてくる。
門下たちが遠巻きに様子を窺う中、母はいつも通りの距離で立ち止まった。
「今日は、よく振れていたわね」
評価でも、慰めでもない。
事実を口にしただけの声音だった。
悠真は小さく頷く。
自分の剣が通ることは分かっている。
通らなかったことも、同時に分かっていた。
「父の剣は、まだ分からない」
悠真がそう言うと、母はわずかに目を細める。
「分からなくていいのよ」
母は稽古場の中央を見渡す。
踏み荒らされた土。
残る気配。
すでに終わった時間。
「間違っていないなら、急ぐ必要はないわ」
悠真は返事をしなかった。
急ぐ理由は、確かにある。だが、それを口にする場ではない。
父は背を向け、屋敷の奥へ歩き出す。
呼び止める声はない。
教えもない。
それでも、拒まれているわけではなかった。
悠真は一人、剣を取り、型を一つだけなぞる。
力を乗せる剣。
一太刀で終わらせる剣。
体は、迷わず動いた。
次に、思い出すように、先ほど見た父の動きをなぞろうとする。
足が止まる。
刃が、そこに置けない。
できないことを、確認しただけだった。
悠真は剣を下ろす。
結論は出さない。
選びもしない。
ただ、この家には別の剣がある。
そして、自分の剣もここにある。
否定されることなく、違和感だけが残った。
それで、今日は十分だった。




