第14話①
生まれた瞬間、世界は静かだった。
泣き声が上がるよりも先に、空気が張り詰める。
集まっていた者たちは誰一人として声を上げず、ただ一斉に視線を一点へ向けていた。
「……無事だな」
低く落ち着いた声が、その場を支配する。
剣聖と呼ばれる男は、腕の中の赤子を見下ろし、余計な感情を挟まずにそう告げた。
それだけで十分だった。
歓声はない。祈りもない。
あるのは、剣を振るう前と同じ静けさだけだ。
母は寝台からその光景を見つめ、静かに息を吐いた。
貴族の家に生まれ、剣の家で育った女だった。
喜びよりも、確かめるような視線がそこにはあった。
赤子は、泣かなかった。
小さな拳が、ゆっくりと開かれる。
それだけの動きに、周囲の者たちがわずかにざわめいた。
「……早い」
誰かが呟いたが、剣聖は反応しない。ただ、赤子を抱く腕の位置をわずかに変える。
その動作は滑らかで、力を使っているようには見えなかった。
それでも、場の空気が変わる。
部屋の隅に控えていた者たちは、無意識のうちに一歩退いた。
命じられたわけではない。
ただ、そこに立ち続けるべきではないと、体が理解していた。
この家では、剣が語る。
言葉よりも、理屈よりも、先に。
赤子は剣聖の腕の中で瞬きをし、天井を見上げた。
まだ何も知らないはずの目が、まっすぐに世界を映している。
母はその様子を見て、小さく頷いた。
「……この子も、剣の中で生きる」
それは予言ではなく、確認だった。
剣で成り上がり、剣で立ち、剣で世界に名を刻んできた家。
その中心に、新しい命が置かれた。
ただ、それだけのことだった。
幾ばくかの月日が経ち、物心がついたその瞬間。
唐突に、世界が裏返る。
今まで見ていた天井の模様や、差し込む光の角度が消え、別の光景が重なった。
黒い空。
音を立てて裂ける大地。
建物も、人も、叫びも、すべてが歪みながら引きずり込まれていく。
終わりの光景だった。
剣を握っていた感触が、はっきりと残っている。
腕の重さも、足裏の感覚も、判断の速さも失われていない。
だが、斬るべき相手はいなかった。
ただ、闇の中心に立つものがいた。
人の形をした、完全な黒。
輪郭は曖昧で、深淵そのものが立ち上がったような存在。
その中で、赤い目だけが爛々と光っている。
視線が合った、という感覚だけが残った。
次の瞬間、光景は消える。
戻ってきたのは、小さな体と、低い視線。
自分が幼い肉体に収まっていることを、悠真は即座に理解した。
驚きはなかった。
混乱もない。
これは思い出したのだ、と理解しただけだった。
《一断》として生きてきた時間。
英雄剣士の教え。
敵と判断した瞬間に、終わらせる剣。
殺す覚悟も、迷わない判断も、すべてが欠けることなくここにある。
そして、結論も変わらない。
――あれを斬らなければ、世界は終わる。
理由は考えない。
なぜ斬れると思うのかも、今は必要ない。
この人生は、そのためにある。
剣聖の家に生まれたことも、剣の家で育つことも、すべては手段だ。
悠真は、小さな手を握りしめる。
まだ剣はない。
だが、振るう日は必ず来る。
その時に狙う相手は、すでに決まっていた。
黒い、人の形をした存在。
赤い目で世界を見下ろしていた、あれだ。
この人生の目的は、一つだけ。
――必ず斬ること。
剣を初めて見たのは、歩けるようになってからしばらく経った頃だった。
屋敷の奥、開け放たれた稽古場。
土の匂いと、静かな風が流れている。そこに父は立っていた。
剣聖と呼ばれる男は、構えを取らない。
腰を落とすことも、気合を入れることもない。
ただ、そこに剣を持って立っている。
次の瞬間、音が消えた。
悠真は、何が起きたのか理解できなかった。
剣が振られた感触も、空気を裂く音もない。
だが、稽古用の標的は、いつの間にか位置を失っていた。
倒れたのではない。
崩れたのでもない。
ただ、成立していなかった。
「……?」
思わず声が漏れそうになるのを、悠真は飲み込んだ。
剣は、振るえば終わる。
力を乗せれば、通る。
それが、これまで自分が知っている剣だった。
だが、今見たものは違う。
父は剣を戻し、何事もなかったかのように歩み去ろうとする。
その背に、母の声が重なった。
「力を使いすぎよ」
父は振り返らず、短く答えた。
「使っていない」
それだけだった。
悠真は、その場に立ち尽くす。
今の剣は、英雄剣士に教わったものとは噛み合わない。
力を乗せる前に、終わっている。
踏み込むより早く、そこにない。
真似しようとして、体が止まる。
剣を振る感覚はある。
間合いも読める。
だが、今見た剣は、そのどれにも属していなかった。
「剣は、置くものよ」
母が、悠真の隣に立つ。
「振るえば、どうしても遅れる。力を使えば、必ず歪む」
悠真は黙って聞いていた。
理解したとは言えない。
だが、拒否もしなかった。
英雄剣士の剣は、完成している。
あの剣で、斬るべき相手は斬れる。
それでも、この家には、別の剣があった。
技が主体で、力と相容れない剣。
通らせるのではなく、成立させる剣。
悠真は、何も掴まないまま、その場を後にする。
結論は出さない。
選びもしない。
ただ、剣がここにあることだけは、はっきりと分かった。
この人生には、剣が必要だ。
それだけで、十分だった。




