第2話
気がつけば、悠真は「ここ」にいた。
泣いた記憶も、混乱した記憶も、はっきりとは残っていない。
ただ、いつの間にか自分は成長していて、学校に通い、年齢相応の生活を送っていた。
幼い頃の出来事は、どれも断片的だ。
はっきり覚えているのは、特別な事件ではなく、朝の支度や帰り道の風景といった、
ごくありふれた場面ばかりだった。
机に向かって授業を受け、帰宅すれば食事が用意されている。
それを不思議だと思うほどの感受性もなく、疑問はすぐに日常に埋もれていった。
成績は悪くなかった。
目立ちもしないが、遅れも取らない。
周囲から見れば、扱いやすい子どもだっただろう。
進学も、就職も、気づけば決まっていた。
誰かと激しく話し合った記憶も、強く反対された記憶もない。
流れに逆らわず、そのまま進んだだけだ。
時間は、区切りなく流れていた。
意識して振り返らなければ、「普通の人生」としてまとめてしまえるほどに。
それでも、ときどき引っかかる瞬間があった。
「……今の、前にも聞いた気がする」
誰かの言葉や、場の空気に、理由の分からない既視感が混じる。
初めてのはずなのに、驚きが薄い。
説明はできない。
問い詰めようとしても、言葉にならない。
ただ、「知っている気がする」という感覚だけが残る。
その違和感は、強くなることもなく、消えることもなく、
日常の底に沈んだまま続いていた。
不安というほどでもない。
だが、見過ごすには、少しだけ重い。
「悠真、今日も助かったよ」
事務所の奥から、社長が声をかけてきた。
悠真は立ち上がり、手元の書類をまとめて渡す。
「勤怠の集計、今月分です。現場ごとに分けてあります」
「早いな。前の担当の時は、これだけで半日かかってた」
「慣れてきただけです」
悠真が勤めているのは、社員数二十名にも満たない小さな会社だった。
製造と現場作業が中心で、事務所に常駐している人間は少ない。
悠真の仕事は、総務寄りの事務職だ。
勤怠管理、請求書、備品の手配。
現場と社長の間に立ち、細かな調整を行う役回り。
午後になると、現場から戻った作業員が事務所に顔を出す。
「この書類、どこに出せばいい?」
「ここに置いてください。内容は確認しておきます」
「助かる。じゃあ、あとは頼む」
その言葉は、軽いが嘘ではない。
自分の仕事が、誰かの手間を確実に減らしている。
昼休み、同僚が缶コーヒーを机に置きながら言った。
「悠真、こういう仕事、向いてるんじゃないか?」
「そうかもしれませんね」
「なんかさ、落ち着いて仕事してるよな」
悠真は、小さく頷いた。
確かに、この仕事には――
前よりも、手応えのようなものがあった。
それでも、何かが足りない。
提案を求められることはある。
だが、最終的に決めるのは社長だ。
「どう思う?」
「このやり方が無難だと思います」
「じゃあ、それでいこう」
間違ってはいない。
問題も起きない。
だが、決断した感覚は残らない。
前に出たわけでも、引き受けたわけでもない。
環境は良い。
人間関係も悪くない。
それなのに、胸の奥に、前と同じ空白がある。
夜、一人で部屋にいる時だった。
照明を落とし、椅子に腰を下ろす。
静かな空間に身を置いた瞬間、思考が内側へと向いた。
ふとした拍子に、前の人生の情景がよぎる。
知らないはずの部屋。
一人で飲んだ酒。
テレビの音。
そして、横断歩道。
「……あ」
声にならない音が漏れた。
夢ではない。
そう思った理由を、言葉にすることはできない。
だが、感覚だけが、確かに一致していた。
あの時感じた、満足できなかったという評価。
思い出したのは出来事ではない。
判断でも、言葉でもない。
感情だけが、先に戻ってきていた。
「……そうか」
悠真は、ゆっくりと息を吐いた。
これは、一度目じゃない。
その日は、特別な一日ではなかった。
仕事を終え、事務所を出て、いつも通りの帰り道を歩く。
街の明かりは前よりも近く感じたが、立ち止まる理由にはならない。
部屋に戻り、上着を脱ぐ。
靴を揃え、電気をつける。
その一つひとつの動作に、迷いはなかった。
――前よりは、ちゃんと生きている。
ふと、そんな感覚が浮かぶ。
誰かの役に立っている実感もある。
人と関わっているという手応えもある。
だが、それだけだった。
「……これで、終わりか?」
問いは、独り言にもならず、胸の内に沈んだ。
次の瞬間、視界が揺れた。
音が遠ざかり、足元の感覚が抜け落ちる。
痛みはない。
恐怖もない。
ただ、思考だけが、静かに続いていた。
――前よりは、よかった気がする。
――でも、満足かと言われると……違う。
評価は、そこで止まった。
暗転。
光。
落ちる感覚。
何かが始まる予兆だけを残して。




