第11話 前編
夜明け前の空気は冷たく、土の匂いが濃かった。
湿った大地が息をしているような感覚は、幼い頃から身体に染みついている。
悠真は藁を敷いた寝床から身を起こし、ゆっくりと足を下ろした。
裸足で踏む床の感触に、違和感はない。
この家で生まれ、この家で育った身体だ。
外では、すでに一日の準備が始まっている。
家畜の動く音。
道具が触れ合う鈍い響き。
遠くで鳥が鳴き、畑の境を示す杭が朝靄に沈んでいる。
記憶が、静かに重なった。
現代で生きた時間。
転生を繰り返してきた人生。
そして、この世界で過ごしてきた年数。
混ざり合うことなく、並んで存在している。
身体は、この農村の時間を知っている。
意識だけが、少し遅れて追いついた。
ここは、剣や魔法が物語の中心にある場所ではない。
少なくとも、この村では。
畑があり、季節があり、収穫と納めがすべてだ。
空を飛ぶ話も、火を生む力も、遠い噂としてしか届かない。
生まれた家は農家だった。
それ以上でも、それ以下でもない。
土を耕し、種を蒔き、天候に一喜一憂する。
その繰り返しの中で、年を重ねる。
身体を動かすことに、特別な意味はない。
生きるために必要だから、そうしているだけだ。
悠真は、土の付いた道具を手に取る。
重さも、持ち方も、すでに知っている。
この人生に、逃げ道は用意されていない。
だが、それは不幸ではなかった。
少なくとも、今はまだ。
朝日が畑を照らし、影が長く伸びる。
今日も、いつも通りの一日が始まる。
日が高くなる頃、畑は人の声で満ち始めた。
父は無言で鍬を振るい、母は苗の間を黙々と進む。
手際は良いが、余裕はない。
この土地で生きるための動きだ。
「今年は雨が少ないな」
父が、空を一度だけ見上げて言った。
「畑が持てばいいけどね」
母はそう返し、土を押さえる。
それ以上の会話はない。
天候の話は、願いではなく確認だ。
昼前になると、村の若者たちが集まる。
皆、似たような服装で似たような手をしている。
「お前、来年はどうする」
年上の青年が悠真に声をかけた。
「家を継ぐ」
答えは、決まっている。
青年は肩をすくめた。
「だよな。うちもそうだ」
別の若者が、少し冗談めかして言う。
「剣の才でもあれば、違ったんだろうけどな」
笑いが起きる。
だが、誰も本気で信じてはいない。
才能がある者は、村に残らない。
そもそも、そういう者が生まれる確率は低い。
魔法の話も、同じだ。
巡回の魔術師が来ることはある。
だが、試されるのは税と同じくらい遠い。
父は、悠真の動きを一度だけ見て言った。
「悪くない」
評価は、それで十分だった。
剣も、魔法もない。
だが、畑ではそれがすべてだ。
夕方、領主の使いが村を通る。
荷車と武装した護衛。
誰も近づかない。
支配は、暴力ではなく距離で行われる。
悠真は理解する。
この世界には、上に行く道があるわけではない。
生まれた場所で、生き切る。
それが、ほとんどの人生だ。
そして、自分もその一つに含まれている。
日が傾き、畑に長い影が落ちる頃、作業は一段落した。
悠真は鍬を置き、腰を伸ばす。
身体は疲れているが、嫌な痛みではない。
成長してきたこの身体にとって、農作業は日常の延長だった。
村には、時折よそ者が現れる。
巡回の魔術師や、領主の使いに混じる剣士。
彼らの存在は、遠くの世界を思わせる。
だが、悠真は呼ばれない。
声をかけられたことも、試されたこともない。
腕を見られるのは、畑の出来だけだ。
魔力の有無を測られることもない。
剣を握らせてもらう機会もない。
それが、この人生の評価だった。
夕食の準備が進む家の中で、両親は明日の話をしている。
種の在庫。
隣村との物々交換。
冬に備えた干し草の量。
どれも、現実的で、具体的だ。
夢を見る余地は少ない。
それでも、家は静かで、壊れてはいない。
争いも、欠乏も、今のところはない。
悠真は、戸口に立ち、畑を見渡す。
耕した土地が、夕焼けに染まっている。
――今回は、ここだ。
心の中で、そう整理する。
逃げ道を探さない。
特別な何かを期待しない。
この家に生まれ、この土地で育ち、
やがて親の後を継ぐ。
それ以上でも、それ以下でもない人生。
不満がないわけではない。
だが、拒絶する理由もなかった。
悠真は息を整え、家の中に戻る。
明日も、畑に出る。
それが、この世界での役割だ。
夜が村を包み込み、遠くで獣の声が一度だけ響いた。
この土地にも、危険はある。
だが、それはまだ先の話だ。
悠真は寝床に身を横たえ、目を閉じる。
前編の人生は、静かに進んでいく。
終わりは、まだ見えない。




