第7話
目を覚ました時、まず思ったのは静かだということだった。
耳に入るのは、遠くの車の音と、天井の微かな軋み。
胸に手を当て、ゆっくり息を吐く。
――今回は、落ち着いている。
強い既視感はない。
何かを忘れたままではない感覚があった。
理由は分からない。
ただ、胸の奥に小さな指針が残っている。
幸せになりたい。
言葉としては、はっきりしていない。
だが、前へ進く方向だけは定まっていた。
幼少期から、家庭環境に大きな破綻はなかった。
怒鳴られない。
殴られない。
放り出されない。
その代わり、特別に恵まれているわけでもない。
成長するにつれ、悠真は考える。
――幸せって、何だ。
派手な成功はいらない。
誰かに誇れる実績も、強くは望まない。
安定していて、
必要とされていて、
役に立っていると分かること。
それで十分なはずだ、と。
選んだのは、ビル設備の常駐管理だった。
空調、給排水、非常設備。
点検と対応が主な仕事だ。
資格は必要だが、学歴は問われない。
現場に出て、手を動かす。
「今日は、地下のポンプ見てくれるか」
上司は事務所で言った。
「分かりました」
悠真は工具を持って向かう。
仕事は地味だ。
だが、止まれば困る。
異音を聞き分け、
異常を先回りで潰す。
それだけで、建物は何事もなく回る。
中盤B【即物的な承認】
評価は、数字では返ってこない。
「助かったよ」
テナントの担当者が言う。
「昨日の対応、早かったな」
上司が一言添える。
それで終わりだ。
昇進の話はない。
表彰もない。
だが、仕事は増えていく。
それは信頼だと、悠真は理解していた。
役に立っている。
必要とされている。
――これが、幸せに近づいている感覚なのだろう。
そう思えた。
現場では、名前よりも「顔」で覚えられるようになった。
「この前の件、あの人が対応してくれたよ」
そう言われると、担当者は安心したように頷く。
代わりはいくらでもいるはずなのに、
その場では自分が選ばれている。
それが、少しだけ誇らしかった。
同時に、離れにくくなる感覚もあった。
休みの連絡を入れるたび、
頭のどこかで計算している。
――今日は、誰に負担が行く。
必要とされることは、心地いい。
だが、気づけばそれは、
生活の中心に居座り始めていた。
夜勤が増え、不規則な生活になる。
休日は、体を休めるだけで終わる。
友人関係は、自然と減った。
新しい縁も、特に広がらない。
不満はない。
自分で選んだ仕事だ。
疲労が抜けきらない朝、ふと思う。
数年が経った。
現場では、ベテラン扱いされるようになった。
新人の面倒を見ることも増える。
「分からなかったら、すぐ聞け」
そう言える立場になった。
収入は安定している。
生活に困ることはない。
外から見れば、問題のない人生だ。
終盤B【問い直し】
ある夜、巡回を終え、非常階段に腰を下ろした。
機械の音が、一定のリズムで鳴っている。
守ってきたものは多い。
壊したものは少ない。
それでも、胸に残る感覚がある。
満たされた、とは言い切れない。
――これは、幸せなのだろうか。
問いは浮かぶが、否定する理由もない。
階段に座ったまま、悠真はしばらく動かなかった。
仕事が終わった後の静けさは、嫌いではない。
誰にも話しかけられず、何も求められない時間。
それでも、完全に休まるわけではなかった。
明日も同じ時間に起き、
同じ建物に入り、
同じ点検を繰り返す。
その繰り返しが、悪いとは思わない。
実際、守ってきたものは確かにある。
誰かの生活が止まらずに済んだ。
トラブルが大事になる前に終わった。
それだけで十分だ、と
何度も自分に言い聞かせてきた。
だが、ふとした拍子に思う。
この先も、同じことを続けていくのか。
続けられるのか。
答えは、どちらでも構わないはずだった。
続けられなくなれば、別の道を探せばいい。
それなのに、胸の奥に小さな引っかかりが残る。
安心しているはずなのに、落ち着いているはずなのに。
満ちていない、という感覚だけが消えない。
階段の照明が、自動で切り替わる。
一瞬だけ暗くなり、また灯る。
その光を見て、自分の人生も同じだと思った。
消えてはいない。
ただ、切り替わり続けているだけだ。
次に灯る場所が、ここでなくてもいいのではないか。
そんな考えが浮かび、すぐに消えなかった。
帰り道、横断歩道を渡る。
信号が変わる。
足を踏み出す。
その瞬間、ふっと力が抜けた。
倒れる感覚はない。
ただ、世界が遠ざかる。
不幸ではなかった。
だが、満足もしていない。
そう理解したところで、意識は切れた。
――これで、いいのか。
答えは、急がないことにした。




