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第1話

朝はいつも同じ時間に目が覚める。

目覚ましが鳴る前に一度、薄く意識が浮かび、天井を見上げてから体を起こす。

悠真はその流れを、もう何年も繰り返していた。


カーテンを少しだけ開けると、灰色がかった朝の光が部屋に差し込む。

天気を気にするほどの予定はない。支度をし、家を出て、駅まで歩く。

コンビニで缶コーヒーを一本買うかどうかを迷って、結局、買わない。


通勤電車は混んでいるが、苦痛というほどでもない。

スマートフォンを見ながら、流れていく駅名を目で追う。目的地に着けば降りる。それだけだ。


会社では、与えられた仕事をこなす。資料を整え、数字を確認し、指示を受けて返す。

特別に褒められることもなければ、叱られることもない。周囲から見れば、扱いやすい社員だった。


昼休みには、同じような弁当を食べる。午後も同じ流れが続く。

定時を少し過ぎてから席を立ち、帰路につく。

問題は起きない。だから、何も変わらない。


帰宅すると、靴を脱ぎ、電気をつける。誰もいない部屋は静かで、散らかってもいない。

整っているが、生活感も薄い。

テレビをつけ、流れてくる音を背景にして夕食を済ませる。


そして、一日が終わる。

それは「失敗のない一日」だった。


【次の日】

会社に着く頃には、朝のことなど特に意識に残っていなかった。

いつも通り席に着き、いつも通り画面を立ち上げる。

今日という一日も、特別な区切りを持たないまま、仕事の中に溶けていった。

「悠真さん、これ、確認お願いできますか」


同僚の女性が書類を差し出した。

悠真はそれを受け取り、目を通す。


「問題なさそうですね。ここ、少し表記を揃えた方がいいかもしれません」


「ありがとうございます。助かります」


彼女はそう言って、書類を引き取った。それだけのやり取りだった。


午後、別の同僚が声をかけてくる。


「来月、別部署に異動することになったんですよ」


「そうなんですか」


「正直、不安もありますけど……挑戦かなって」


同僚は笑いながら言った。

悠真は少し考えてから、頷く。


「いいと思います。経験になりますし」


「ですよね。悠真さんも、何か考えてたりしません?」


「……今のところは」


それ以上、会話は続かなかった。

否定も、肯定もしていない。ただ、話題がそこで終わっただけだ。


誰かが動き出しても、悠真はその場に留まる。

それを、特別なことだとは思っていなかった。


【ある日の会議室】


「今回の件なんだけど」


上司が会議室で口を開いた。

悠真と数名の社員が席についている。


「新規案件、手を挙げる人はいるか?」


一瞬、沈黙が落ちる。

資料には、新しい取引先の情報が並んでいた。難易度は高いが、成功すれば評価につながる。


「俺、やってみようと思います」


若い社員が手を挙げた。

上司は少し驚いた顔をしてから頷く。


「そうか。心強いな」


上司の視線が、他の社員にも向く。

悠真のところで、一瞬止まった。


「悠真はどうだ?」


問いかけは穏やかだった。

断っても、問題はない。


悠真は資料を見下ろし、言葉を選ぶ。


「今回は、サポートに回った方がいいかと思います。彼が主担当なら、安定しますし」


上司は数秒考え、頷いた。


「確かに。それが無難だな」


「ありがとうございます」


若い社員は少し緊張した笑顔を浮かべた。

会議は、そのまま次の議題へ進んだ。


悠真の選択は、正しかった。

少なくとも、誰も困らない判断だった。


数週間後。

新規案件は、無事に進んでいた。


「思ったより大変でしたけど、勉強になりました」


主担当になった社員が言う。


「よくやったな」


上司が肩を叩いた。


悠真は、そのやり取りを少し離れた席から見ていた。

自分が関わった部分も、確かにある。だが、名前が出ることはない。


「助言、ありがとうございました」


若い社員が礼を言ってくる。


「いえ。うまくいってよかったです」


それで終わりだった。

評価は動かない。立場も変わらない。


失敗ではない。

だが、何かを得たわけでもなかった。


その日の業務は、定時を少し過ぎたところで終わった。

特に呼び止められることもなく、誰かに声をかけられることもない。

悠真は席を立ち、照明が落ち始めたフロアを抜けて会社を出た。

何も起きなかった一日が、静かに終わっただけだった。


夜、部屋に戻り、缶ビールを開ける。

テレビでは、知らない誰かの成功談が流れていた。


悠真は音量を下げ、静かに飲む。


「……悪くはないんだけどな」


誰に向けた言葉でもなかった。

今日一日を思い返しても、大きな後悔はない。


仕事は終わっている。

人間関係も、問題はない。


それでも、胸の奥に残る感覚がある。

満たされていない、とまでは言わない。ただ、何かが足りない。


グラスを空にし、立ち上がる。


「このままでも、困らない」


そう思えることが、少しだけ怖かった。


外は夜だった。

酔いを覚まそうと、少し遠回りして歩く。


信号が変わる。

足を踏み出した、その瞬間。


衝撃。

次の瞬間には、音も、感覚も、途切れていた。


暗闇の中で、意識が薄れていく。

痛みはない。ただ、空白が広がる。


(……満足いかない人生だったな)


それが、最後に浮かんだ感覚だった。


――そして。


光。

落下するような感覚。

何かの音。


それらはすぐに遠ざかり、

再び、闇に沈んだ。

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