第2話
――時は、半年ほど遡る。
街の片隅にある小さな公園。その古びたベンチの上に、彼女はぽつんと座っていた。
季節は春の終わり、昼と夜の境が曖昧な時間。灰色の雲の隙間から、ポツリ、ポツリと冷たい雨が落ちはじめる。
傘を持っていないのか、彼女は微動だにしない。肩に、髪に、制服に、雨粒が静かに染み込んでいく。
その姿は、まるでこの世界から取り残された影のように見えた。
「おいっ、そんなとこに座っていたらずぶ濡れになっちまうぞ」
俺は思わず声をかけていた。
通りがかりの人間として見過ごせなかった。ただそれだけのはずなのに、なぜか胸の奥がざわつく。
「どんどん雨足が強くなってるんだ。風邪をひく前に、早く帰れ」
俺の言葉に、彼女は小さく顔を上げた。
濡れた前髪の隙間から見えた瞳は、焦点が合っていないように虚ろで――それでも確かに、何かを訴える光が残っていた。
「せん……わた……かえ……」
声がかすれて、ほとんど聞き取れなかった。
「悪い、もう一回言ってくれないか?」
雨の音が会話を掻き消していく。彼女は唇を震わせながら、今度は少しだけ強く言葉を絞り出した。
「……帰るところなんて、ありません。
私たち姉妹には、もう……帰る場所なんて無いんです」
その瞬間、彼女の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
それは雨と混じり、彼女の頬を流れて消えていく。
「帰っても……親戚の、知らないおじさん達に……妹と引き離される話が出てて……」
その声には、絶望と恐怖がにじんでいた。
理由は全部は分からない。けれど、彼女の涙だけは本物だった。
見てしまった以上、放っておくことなんてできるはずがない。
「事情は分からないけど、このままじゃ風邪ひくだろ。
俺の部屋、すぐ近くだ。体を冷やす前に、いったん来い」
彼女は俯いたまま、しばらく動かない。
だが、俺がそっと手を差し出すと、その小さな手が震えながらも、確かに俺の掌を掴んだ。
――犯罪じゃない、これは人助けだ。
そう自分に言い聞かせながら、俺は彼女を連れて部屋へと走った。
雨は本降りになり、靴の中までぐしゃぐしゃになった。
着いた頃には、俺も彼女も全身びしょ濡れ。肩から滴る水が床に小さな水溜まりを作る。
「おらっ、これで少しでも体を拭け。すぐに風呂沸かしてやるから」
タオルを渡した瞬間、息が詰まる。
制服が肌に張り付き、濡れた布越しに体のラインがはっきりと浮かんでいた。
下着まで透けて見えてしまって――俺は慌てて目を逸らした。
「す、すまん!」
言い訳のように声を出し、タオルを押し付けるように渡して、逃げるように風呂場へ向かう。
――いやらしい目で見たわけじゃない。ただ、助けたかっただけだ。
それでも胸の奥が熱くなり、心臓が妙にうるさい。
人を助けるって、こんなに気まずいことだったか?
***
(私……なんで、ここにいるんだろう?)
見知らぬ男の人の部屋。雨の音が屋根を叩く。
ぼんやりした意識のまま、私は渡されたタオルを見つめていた。
……でも、いいや。どうでも。
もう、何も考えたくない。
母が亡くなってから、すべてが壊れた。
親戚の家に預けられたけれど、あの人たちは優しいふりをして、心の奥では私たち姉妹を品定めするような目で見ていた。
母の遺産を狙って、私たちを引き離そうとしている。
それに――あの視線。妹はまだ十歳。
私が守らなきゃいけないのに、私自身がもう壊れかけている。
(どうせなら、誰か知らない人に、全部奪われた方がまだマシかも……)
そう思っていた。
でもこの人は、私を見なかった。
濡れた制服を見て、目を逸らして、タオルを渡して――そのまま逃げるように風呂場へ行った。
それだけのことが、胸の奥をじんわりと温かくした。
あの人はきっと、優しい人なんだろう。
この世界で、まだそんな人がいるんだって――少しだけ、信じたくなった。




