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餌付けしてしまった  作者: けんたん


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2/5

第2話

 ――時は、半年ほど遡る。


 街の片隅にある小さな公園。その古びたベンチの上に、彼女はぽつんと座っていた。

 季節は春の終わり、昼と夜の境が曖昧な時間。灰色の雲の隙間から、ポツリ、ポツリと冷たい雨が落ちはじめる。


 傘を持っていないのか、彼女は微動だにしない。肩に、髪に、制服に、雨粒が静かに染み込んでいく。

 その姿は、まるでこの世界から取り残された影のように見えた。


「おいっ、そんなとこに座っていたらずぶ濡れになっちまうぞ」


 俺は思わず声をかけていた。

 通りがかりの人間として見過ごせなかった。ただそれだけのはずなのに、なぜか胸の奥がざわつく。


「どんどん雨足が強くなってるんだ。風邪をひく前に、早く帰れ」


 俺の言葉に、彼女は小さく顔を上げた。

 濡れた前髪の隙間から見えた瞳は、焦点が合っていないように虚ろで――それでも確かに、何かを訴える光が残っていた。


「せん……わた……かえ……」


 声がかすれて、ほとんど聞き取れなかった。


「悪い、もう一回言ってくれないか?」


 雨の音が会話を掻き消していく。彼女は唇を震わせながら、今度は少しだけ強く言葉を絞り出した。


「……帰るところなんて、ありません。

 私たち姉妹には、もう……帰る場所なんて無いんです」


 その瞬間、彼女の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。

 それは雨と混じり、彼女の頬を流れて消えていく。


「帰っても……親戚の、知らないおじさん達に……妹と引き離される話が出てて……」


 その声には、絶望と恐怖がにじんでいた。

 理由は全部は分からない。けれど、彼女の涙だけは本物だった。

 見てしまった以上、放っておくことなんてできるはずがない。


「事情は分からないけど、このままじゃ風邪ひくだろ。

 俺の部屋、すぐ近くだ。体を冷やす前に、いったん来い」


 彼女は俯いたまま、しばらく動かない。

 だが、俺がそっと手を差し出すと、その小さな手が震えながらも、確かに俺の掌を掴んだ。


 ――犯罪じゃない、これは人助けだ。

 そう自分に言い聞かせながら、俺は彼女を連れて部屋へと走った。


 雨は本降りになり、靴の中までぐしゃぐしゃになった。

 着いた頃には、俺も彼女も全身びしょ濡れ。肩から滴る水が床に小さな水溜まりを作る。


「おらっ、これで少しでも体を拭け。すぐに風呂沸かしてやるから」


 タオルを渡した瞬間、息が詰まる。

 制服が肌に張り付き、濡れた布越しに体のラインがはっきりと浮かんでいた。

 下着まで透けて見えてしまって――俺は慌てて目を逸らした。


「す、すまん!」

 言い訳のように声を出し、タオルを押し付けるように渡して、逃げるように風呂場へ向かう。


 ――いやらしい目で見たわけじゃない。ただ、助けたかっただけだ。


 それでも胸の奥が熱くなり、心臓が妙にうるさい。

 人を助けるって、こんなに気まずいことだったか?


 ***


(私……なんで、ここにいるんだろう?)


 見知らぬ男の人の部屋。雨の音が屋根を叩く。

 ぼんやりした意識のまま、私は渡されたタオルを見つめていた。


 ……でも、いいや。どうでも。


 もう、何も考えたくない。

 母が亡くなってから、すべてが壊れた。

 親戚の家に預けられたけれど、あの人たちは優しいふりをして、心の奥では私たち姉妹を品定めするような目で見ていた。


 母の遺産を狙って、私たちを引き離そうとしている。

 それに――あの視線。妹はまだ十歳。

 私が守らなきゃいけないのに、私自身がもう壊れかけている。


(どうせなら、誰か知らない人に、全部奪われた方がまだマシかも……)


 そう思っていた。

 でもこの人は、私を見なかった。

 濡れた制服を見て、目を逸らして、タオルを渡して――そのまま逃げるように風呂場へ行った。


 それだけのことが、胸の奥をじんわりと温かくした。

 あの人はきっと、優しい人なんだろう。

 この世界で、まだそんな人がいるんだって――少しだけ、信じたくなった。

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