第1話
――これは夢だ。
きっと、夢に違いない。
だって、あの二人がいるはずがない。もう、あの優しい声も、温かい手も、この世界のどこにも存在しないのだから。
あの日のことは、今でも鮮明に思い出せる。
いつもと変わらない朝。俺の頬に触れながら、母さんは微笑んで言った。
「敬斗、いつもごめんね。でもあと少しできっと三人で一緒にいられるからね。その時は、あなたには私たちの補助をしてもらって――パパの跡を継いでもらおうかしら」
柔らかい声、シャンプーの匂い、そして包み込むような温もり。
幼い俺はその胸の中で小さく頷いた。
「うん、早く俺もパパみたいに料理でたくさんの人を笑顔にできるようになりたい。ママたちが帰ってきたら、新作料理あるから食べてくれよ」
母は楽しそうに目を細め、少し照れくさそうに笑った。
「ええ、楽しみにしているわ。未来のスーパーシェフさん」
――それが、最後の親子としての会話だった。
その日の午後。
空港に向かった二人は、そのまま帰ってこなかった。
ニュースで流れた「機体トラブルによる墜落事故」という冷たい言葉が、俺のすべてを奪った。
以来、俺は何度も夢の中で同じ朝を繰り返している。
届かない笑顔を追いかけながら。
……そんな夢の余韻を断ち切るように、いきなりの衝撃が俺の腹を直撃した。
「グハッ……!?」
「アハハハ! グハッだってケー兄おもしろーい! ねぇ、お腹空いちゃった。朝ごはん作ってよー。ケー兄のご飯、大好き!」
――こいつ、本気で蹴ってきたな。
夢の中の柔らかい温もりから現実へ、あまりにも雑な呼び戻され方だ。
「はいはい。もう年頃の女の子なんだから、いい加減じゃれてくるのはやめてくれよ。昨日、下ごしらえは終えてるからササッと作ってくるよ」
「そうですよ。もう、ゆいったら……。いつになったらもう少しおしとやかになってくれるのかしら? それとゆい、あなたさっきから丸見えよ。敬斗さんは優しいから目をそらしてくれてるけど、いいのかしら?」
遠慮という概念をどこかに置き忘れた物言い。
俺が気づいていながら口にしなかったことを、なぜかストレートにぶっ放してくる彼女――この家の長女、詩織さん。
「えっ、丸見えってな……にが? キャッキャ〜! ケー兄のエッチ! こっち見ちゃダメ〜!」
ほら言わんこっちゃない。
まるで小学生みたいなリアクションでバタバタと騒ぐゆいを横目に、俺は深いため息をついた。
窓から差し込む朝の光が、ゆいの乱れた髪に反射して金色に輝く。
あの日の夢の中で見た母の髪の色と重なって、ほんの一瞬、胸の奥が締めつけられた。
「敬斗さん、お手伝いしますね。私も敬斗さんの作るご飯、大好きです。昨日下ごしらえしてくれてましたよね? 今日は何を作るんですか?」
「昨日はスープの下ごしらえをしてたから、あとは味を整えるだけ。あとはサラダとパンにオムレツ……って感じかな。オムレツは俺がやるから、サラダは任せてもいい?」
「はい。敬斗さん特製のドレッシングがまだありますから、サラダは任せてください」
詩織さんは小さく頷いて、冷蔵庫から野菜を取り出した。
動作は落ち着いていて、どこか柔らかい。あの頃――料理を手伝わせるたびに黒い煙を上げていた“カーボンマスター”の面影は、もうない。
包丁の音が心地よく響く。
この音が、俺にとっての「生きている証」みたいなものだ。
家族を失っても、料理だけは俺をつなぎとめてくれた。
「ケー兄、着替えてきたよ! ほらほら、今日も“カワカワ”なゆいちゃんだよ〜!」
声のトーンからして、テンションが明らかに高い。
振り返れば、リボンをつけたゆいが全力でポーズを決めていた。
「分かった分かった。今日もカワイイよ。ほら、今からオムレツ作るから、ゆいはパンを焼いて皿を並べておいてくれ」
「は〜い! じゃあ、あっちで待ってるね!」
無邪気に駆けていく背中を見送りながら、俺は小さく笑った。
夢の中の温もりはもう戻らない。
けれど――この日常の中にも、確かに“家族”の温かさがある。
湯気が立ち上るキッチン。
焼き立てのパンの香り、炒めたバターの音、そして笑い声。
――さあ、今日も朝ごはんから、一日を始めよう。




