真の自由と平等の追求とそのために必要な政策について
私は個人の自由を持続可能な形で守るためには経済の自由をある程度犠牲にしなければならないと考えている。その理由を説明する。
私は真の自由とは自己所有権があること、すなわちおおよそ身体の自由と言論・表現・思想・信教の自由だと考えている。また、真の平等とは、人間が、その人の人種や民族、性別、思想、宗教によって待遇に差を設けられずに、個人として取り扱われることだったはずだ。私は真の自由のためにヘイトスピーチ規制やフェイクニュース規制に反対で、又真の平等のためにアファーマティブアクションには反対だ。また、人間には思想の自由があるがゆえに何が善で何が悪かを判断する権利が個人にはあると考えている。この権利を社会や国家が侵害する行為、例えば道徳教育に私は反対だ。また私は人にはプライバシー権があると思っており、故に私はPRISM計画にも反対だ。私が絶対に守りたい自由と平等とは身体の自由と言論・表現・思想・信教の自由と、人間がその人の人種や民族、性別、思想、宗教によって待遇に差を設けられずに、個人として取り扱われる権利、そしてプライバシー権なのだ。これらの権利は人々の生活水準がある程度高ければ多くの人が尊重しようと思う権利だと、私は考えている。
しかし、人々の生活水準が下がったり貧富の格差が広がったり治安が悪くなったりすると、徐々に人々は自分の経済状況や安全を守るために強権的な政治家や多種多様な思想を認めない政治家や人を真の意味では平等に取り扱わない政治家を支持するようになる。なぜなら人々は、自由な社会や自分たちと異なる民族や自分たちと異なる思想や宗教を持つ人たちが自分たちの貧困や社会の治安の悪化を招いたと考えるようになるからだ。これは人が、自分の境遇の責任を外部に求めたがる習性からきている。また、この考えは一部正しい。例えば現在外国人労働者が日本人の雇用を奪っているから日本人の賃金は上がらないという意見は正しいし、また経済的自由が貧富の格差の拡大を招いたのもまた確かだからだ。故に人々は自由をさも彼らの生活が貧しくする元凶のように扱うのは妥当性がないでもない。また一部の人種や民族、性別、思想、宗教の人がほかのグループに比べて結果的に貧しくなっていた場合、そのグループを政治的に優遇する政府があればそのグループの貧困は解消されるのもまた確かだ。さらに貧富の格差は治安の悪化を招くわけだが、プライバシー権の尊重という考えのせいで監視カメラが設置できなかったりした結果治安の悪化に歯止めがかからないという考え方も筋は通っている。つまり人々の生活水準が下がったり貧富の格差が広がったり治安が悪くなったりした際人々が強権的な政治家や多種多様な思想を認めない政治家や人を真の意味では平等に取り扱わない政治家を応援することは合理的なのだ。そしてそんなことが続けばやがて真の自由や真の平等やプライバシーの権利が尊重されない社会になってしまう。私としてはそれは防ぎたい。なぜなら私は真の自由や真の平等やプライバシー権を重視しているからだ。
そんな社会になるのを防ぐためにはどうすればいいだろうか。答えは単純で、人々の生活水準を上げ、貧富の格差を広げず治安が良い状態を保てばよい。そのためには、経済に対してある程度の介入は必要だし、低賃金の外国人労働者を受け入れてはならないし、国家を挙げて生産性の向上に取り組まなければならない。そうすれば私が守りたかった真の自由と真の平等、およびプライバシー権は守られる。故に私は経済に対して政府がある程度介入すること、外国人に対する抑制的な対応、および国家の生産性の向上のための取り組みを支持する。
もしあなたが自由主義者ならば、今一度問いたいことがある。あなたはどんな自由を守りたいかを問いたい。もしあなたが守りたい自由が経済の自由なのだとするのなら、私の意見はあまり参考にならないだろう。しかしもしあなたが守りたい自由が言論・表現・思想・信教の自由ならば、私の意見は参考になる部分もあると思う。
最後に、私は人間を人間足らしめているのは人間の尊厳だと思う。そして人間の尊厳とは、人が精神的に自由であること、および人が個人として平等に尊重されることによって生み出されるものだと、私は考えている。
これで私がcivil libertarianを名乗るのにもかかわらず経済の自由に否定的かを説明できたと思う。
私が市民的リバタリアンを名乗る理由は私が人の倫理や道徳や社会の秩序や正義よりも人の言論・思想・信教・表現の自由及び人が個人として平等に取り扱われるという意味での平等及びプライバシーを重視しているからである。というのも、現代のリベラルは人の倫理や道徳や社会の秩序や正義のために人の言論・表現の自由や人が個人として平等に取り扱われるという意味での平等を犠牲にする、ヘイトスピーチ規制やフェイクニュース規制やアファーマティブアクションを肯定する傾向があるのだ。そして私は彼らと同類とは思われたくなかったのだ。