第二回 エレベーターという密室における日本人の「屁」に関する一考察、あるいは我々は如何にしてその衝動を克服し、沈黙するようになったか
序章:上昇と下降の間に存在する、形而上学的空間
我々の日常は、数多の「空間」によって分節化されている。家庭、職場、そしてそれらを繋ぐ道。しかし、そのいずれとも異なる、特異な性質を帯びた空間が存在する。それがエレベーターだ。縦に伸びた暗いシャフトを、鉄の箱がただひたすらに上昇し、あるいは下降する。それは、日常と非日常の狭間、階と階の間に存在する、ほんの数十秒の異界である。
この閉ざされた箱の中では、独特の社会的ルールが生まれる。見知らぬ他者と至近距離で呼吸を共にし、互いの存在を認めつつも、決して交わらない。視線は階数表示に注がれ、沈黙は金よりも重い価値を持つ。この奇妙な共同体は、しかし、常に内なる脅威に晒されている。その脅威とは、目に見えず、されどその存在を何よりも雄弁に物語る、あの生理現象――すなわち「屁」である。
本稿は、このエレベーターという名の密室劇場において、なぜ日本人がかくも頑なに「放屁」という名の幕を開けようとしないのか、その深遠なる理由を、社会学的、心理学的、そして極めて個人的な実存的恐怖の観点から解き明かそうとする、壮大なる試みである。これは単なるマナーの問題ではない。これは、日本人の精神構造の根幹に触れる、魂の探求の物語なのだ。
第一部:屁という存在の二元論的考察と「すかしっぺ」という名の奥義
まず、我々は「屁」そのものについて、哲学的な定義を試みなければならない。屁とは何か。それは、腸内に溜まったガスが、肛門括約筋という名の最終関門を突破し、外界へと解き放たれる現象である。この解放の様式には、大きく分けて二つの流派が存在する。
一つは、その存在を隠そうともしない、明朗快活な「音響派」である。「ブッ」「プッ」「パスッ」といった多様な音色を伴い、自らの存在を高らかに宣言する。その潔さは、時として清々しさすら感じさせるが、エレベーターという静寂の神殿において、この流派の信奉者が生き残る術はない。それはもはやテロ行為であり、社会的自殺に等しい。
そこで、多くの者が頼ろうとするのが、もう一つの流派、「サイレントキラー派」、すなわち「すかしっぺ」である。これは、音という直接的な証拠を残さず、標的(この場合は同乗者全員)にダメージを与えるという、極めて高度な暗殺術にも似た技である。括約筋にかけられた繊細なテンション、腰の僅かなひねり、そして呼吸との完璧な同調。それはもはや生理現象ではなく、熟練の職人技、あるいは芸術の域に達していると言っても過言ではない。この技を繰り出す者は、さながら己の気配を消し、闇に紛れる忍者のようである。
しかし、この「すかしっぺ」という奥義には、致命的な欠陥が二つ存在する。
第一に、「臭い」という消せない痕跡である。音を殺し、気配を殺しても、分子レベルの証拠は確実に拡散する。密閉されたエレベーター内では、その拡散速度と濃度は最大化され、数秒後には「何かが起きた」という事実を、乗員全員の嗅覚が冷徹に告げることになる。それは、時限式の化学兵器を自ら起動させるようなものだ。
第二に、そしてこちらの方がより深刻な問題として、制御失敗のリスク、すなわち「実」の恐怖である。その日の体調、特に腸内環境という名の極めて不安定な変数によって、この技の成功率は大きく左右される。サイレントキラーを放ったつもりが、予期せぬ「援軍」を伴ってしまう可能性。これは、引き金に指をかけたロシアンルーレットに他ならない。失敗した際の物理的・精神的ダメージは計り知れず、社会人としての再起は絶望的となる。
この二つのリスクを鑑みた時、「すかしっぺ」は、決して素人が安易に手を出すべきではない、危険な賭けであることがわかる。
第二部:和を以て貴しと為す国の、エレベーター内アナーキーへの恐怖
さて、なぜ日本人は、この危険な賭けにすら挑もうとしないのか。その答えは、我々のDNAに深く刻み込まれた精神構造にある。
聖徳太子が遺した「和を以て貴しと為す」という言葉は、1400年以上の時を経て、現代日本のエレベーター内にまでその影響を色濃く及ぼしている。エレベーター内のあの独特の静けさと秩序は、まさに「和」の精神の結晶体である。そこに異分子、すなわち「屁の臭い」という名の無秩序を投げ込む行為は、共同体の平和を根底から覆す反逆行為と見なされるのだ。
「他人に迷惑をかけない」という、小学校で習う道徳の第一条。これもまた、我々の行動を強く縛る。臭いという実害、精神的苦痛を与えることは、この美徳に真っ向から反する。我々は、自らの腹中の安寧と、見知らぬ他人の心の平穏を天秤にかけ、後者を優先するよう、社会的にプログラムされているのである。
そして、ここからが最も日本人的かつ複雑な心理なのだが、我々が恐れるのは、単に自分が犯人だとバレることだけではない。むしろ、それ以上に恐ろしいのは、「犯人捜し」という名の疑心暗鬼のゲームが始まること、そして、その結果として無実の他者が犯人だと誤解されてしまう可能性である。
想像してみてほしい。あなたが放ったサイレント・アタックの後、同乗者の一人が、隣の紳士をちらりと疑いの目で見たとする。その紳士は、ただ純粋に目的地へ向かっていただけなのに、あなたのせいで「屁をこいたかもしれない人物」という濡れ衣を着せられ、肩身の狭い思いをしている。この罪悪感!自分が恥をかくよりも、他人に恥をかかせてしまうことへの耐え難い苦痛。これこそが、日本人が持つ「奥ゆかしさと他人尊重の精神」が、極限の形で発露した姿なのだ。我々は、自分が容疑者になる恐怖と同時に、無実の誰かを容疑者にしてしまう恐怖という、二重の十字架を背負うことを恐れるのである。
第三部:実録・エレベーター内放屁にまつわる恐怖のケーススタディ
理屈はもういい。ここからは、我々の身に実際に起こりうる、具体的な恐怖のシナリオを検証していこう。これらは決して絵空事ではない。いつ、あなたの身に降りかかってもおかしくない、現実の地獄である。
ケース1:子供という名の「絶対的審判官」
それは、ある日曜の昼下がり、私が住むマンションのエレベーターでの出来事だった。同乗者は、私と、若い母親、そしてその腕に抱かれた5歳くらいの男の子。私の腸内では、昨夜のニンニクとビールが不穏な会議を開いていたが、私は理性の力でそれを抑え込んでいた。1階に到着し、ドアが開いたその瞬間、背後から無邪気な、しかし明瞭な声が響いた。
「ママ、なんか、おさかなのニオイがする!」
その刹那、エレベーター内を走った緊張を、私は生涯忘れることはないだろう。母親は「こ、こらっ!しーっ!」と慌てて子供の口を塞ぐが、時すでに遅し。放たれた言葉は、凍てついた空気の中を鋭い矢のように飛び交った。私は、決して振り返ることができなかった。振り返れば、その純粋な瞳が、まるで高性能なガス検知センサーのように、私を指し示しているに違いなかったからだ。私は犯人ではない。断じてない。しかし、その場でアリバイを証明する術はない。ドアが開いた瞬間の出来事であり、それはつまり、これから降りる私が最も疑わしいポジションにいることを意味していた。私は逃げるようにエレベーターを降りた。背中に突き刺さる母親の「この人かしら…」という視線を感じながら。
子供とは、社会の常識や忖度から解放された「絶対的審判官」である。彼らの嗅覚と好奇心は、大人の欺瞞をいとも容易く見破る。特に、自分の真後ろ、その高さに偶然子供の顔があった場合、瞬時の感知と宣告が行われるリスクは計り知れない。「屁のおじさん」「おならのおばさん」という不名誉な称号を与えられ、その後、マンションの廊下でその子と顔を合わせるたびに、どんな冷ややかな視線を向けられるか。想像するだけで、腹部のガスは逆流し、冷や汗となって背中を濡らすのだ。
ケース2:油断という名の「悪魔の囁き」
深夜のオフィスビル。残業を終え、心身ともに疲れ果てたあなたが、ようやくたどり着いたエレベーター。幸い、待っていたのはあなた一人。ドアが閉まり、上昇を始める鉄の箱は、あなただけの聖域と化した。この解放感!誰にも気兼ねする必要はない。腹中の悪魔が「今だ…今こそ解放の時だ…」と囁きかける。あなたは、その甘い誘惑に抗うことができない。ゆっくりと、しかし確実に、安らぎの一撃を解き放つ。ああ、なんと心地よいのだろうか。緊張からの解放、これこそが生の実感…。
「チーン」
無情にも、あなたのフロアの一つ下で、エレベーターは停止した。そして、閉まりかけたドアが、外からのボタンによって無慈悲にこじ開けられる。そこに立っていたのは、あなたが密かに想いを寄せる、隣の部署の女性だった。彼女は、息を切らしながら、天使のような笑顔でこう言った。
「すみません、待っててくださって、ありがとうございます!」
ありがとう…?違う、断じて違うのだ。これは善意で待っていたのではない。これは、私の油断と怠慢が生んだ、世紀の悲劇なのだ。彼女が乗り込んできた瞬間、その笑顔が、眉間の微かな痙攣へと変化していく様を、あなたはスローモーションで目撃するだろう。彼女は、感謝の対象であったはずのあなたが、この惨劇の発生源であることに、瞬時に気づくに違いない。その後の数十秒間、目的地に着くまでの永遠とも思える時間。あなたは息を止め、石のように硬直し、ただただ階数表示の赤い光が点滅するのを眺めることしかできない。彼女の「ありがとうございます!」という善意の言葉が、世にも皮肉な呪いの言葉となって、あなたの脳内で永遠にリフレインするのである。
ケース3:濡れ衣という名の「不条理劇」
これは、最も理不尽で、最も心を蝕むシナリオかもしれない。あなたは、1階でエレベーターを待っている。ドアが開き、中から一人の男がそそくさと降りてきた。あなたは何の気なしに乗り込む。その瞬間、あなたは気づく。この空間は、既に「汚染」されている、と。強烈な、忘れがたい悪臭が、あなたの鼻腔を蹂躙する。あなたは完全に被害者である。先ほどの男に対する静かな怒りを覚えながらも、自分のフロアのボタンを押し、ただ耐える。
問題は、あなたが降りる時に起こる。あなたのフロアに到着し、ドアが開く。するとそこには、次の乗客が待っているのだ。あなたは、この汚染された空間から解放される安堵と共に、一歩を踏み出す。その時、次の乗客と目が合う。相手の表情が、わずかに曇る。あなたは、相手の心を読むことができる。「うわ、臭い…この人が犯人か」。
違う!私じゃない!私は被害者だ!と、心の中でどれだけ叫んでも、その声は届かない。あなたは、先ほどの男が犯した罪を、そっくりそのまま被せられているのだ。弁明の機会は与えられず、状況証拠は完全にあなたを犯人だと指し示している。このカフカ的な不条理。善人であるはずの自分が、いとも簡単に悪人に仕立て上げられてしまうこの世界の構造。言葉では表すことも、人に話すこともできない、強烈な悔悟と人間不信だけが、あなたの心に深く、重い澱となって沈殿していくのである。
第四部:沈黙のゲーム理論――エレベーター内心理戦の高度な駆け引き
エレベーター内は、もはや単なる移動空間ではない。それは、高度な心理戦が繰り広げられる、ポーカーテーブルなのだ。特に、不幸にも誰かが「事を起こしてしまった」後、そのゲームは静かに、しかし熱く幕を開ける。
プレイヤーは同乗者全員。目的は「自分は犯人ではない」とアピールし、容疑リストから自らを除外すること。
初級戦術:無関心を装う
スマホを取り出し、熱心に画面をスクロールする。あるいは、カバンの中をゴソゴソと漁り、何かを探しているふりをする。外界(臭い)からの情報を遮断し、自分はこのゲームに参加していない、というポーズを取る古典的な戦術だ。しかし、あまりに露骨な態度は、逆に「動揺を隠している」と見なされるリスクも孕んでいる。
中級戦術:被害者アピール
小さく咳払いをする。あるいは、手で軽く鼻のあたりを扇ぐ。これは、「私もこの臭いに気づき、不快に思っている一人です」という、被害者としての立場を表明する行為だ。同盟を結び、犯人を孤立させる効果が期待できるが、タイミングを間違えると、自分が犯人である事実を咳で誤魔化そうとしている、と勘繰られる諸刃の剣でもある。
上級戦術:視線による牽制
このゲームの最も重要な要素は「視線」である。誰もが互いを疑っているが、決して直接的な視線は交わさない。鏡やドアの反射を利用して、他のプレイヤーの表情、眉間のしわ、鼻の動きを観察する。誰かがわずかでも動揺を見せれば、そこが攻撃の集中砲火を浴びるポイントとなる。しかし、観察に集中しすぎると、自分が犯人捜しに躍起になっている異常者だと思われかねない。
このゲームにおいて、最も不利なのは「二人きり」の状況である。責任の所在が100%どちらか一方に限定される、究極のゼロサムゲーム。この場合、沈黙はもはや金ではなく、鉛のように重くのしかかる。相手が先に咳でもしようものなら、心の中でガッツポーズを取る自分がいる。なんと浅ましく、悲しいサバイバルであろうか。
結論:我慢は文明の証であり、腹中のガスは社会性のバロメーターである
我々は、エレベーターで屁を我慢する。それは、臆病だからでも、恥ずかしいからだけでもない。
エレベーターという、ほんの数十秒の共同体を、その脆い平和を、守り抜こうとする、極めて高度な社会性の発露なのだ。我々は、腹中に溜まったメタンや硫化水素の圧力を高めることによって、自らの人間性を試され、そして証明している。それは、他者の存在を想像し、見えざる共同体のルールを尊重し、自らの尊厳と他者の尊厳を天秤にかける、高度な文明的行為なのである。
この我慢は、ある種の精神修行だ。括約筋の制御は、精神の制御に通じる。腹中の混沌を鎮めることは、社会の混沌を鎮める第一歩なのだ。そう考えると、エレベーターで屁をこらえている時の我々は、滝に打たれる修行僧のように、あるいは重圧のかかる大舞台に立つアスリートのように、崇高な存在に思えてこないだろうか。我々の額に浮かぶ冷や汗は、決して汚いものではなく、自らの社会性を守り抜いた、聖なる汗なのかもしれない。
エレベーターの扉が開く。新鮮な空気が流れ込み、腹中の圧力から解放されるあの瞬間、我々は小さな悟りを開いている。今日もまた、一つの社会を守り抜いたのだ、と。