第三十五話 シルア、硬く結びし髪を貫き散らす
SIDE シルア
「エミレを――殴れ。」
言葉が、真芯に根を張る。
頑丈に、逞しく、暖かく……新芽の予感を育んで。
一瞬で、すべてが塗り替わった。
視界が透き通ってく。
幻を孕んだ鏡が砕け、その奥に眠る現実が滲み出すように。
空気が変わる――
触れた指先から、気迫が流れ込み、
静かに、でも確かに、僕の血が唸り始める。
世界が、静かに積もる音を立てた。
……トクン。
心臓が疼く。
前へ前へと押し進めるような――名もなき鼓動。
すべてが、息を潜める。
待ち構えるように、淡い期待と緊張を幕引いて。
転瞬。
目の前で、少女の残像が浮かび上がった。
陽炎のように、微かに揺らめきながら。
けれど、それは幻でも何でもない。
エミレだった。
いや、違う。
……わかっている。
「おかえり」なんて言葉は、今の彼女に届かない。
それでも、心の奥でそう呟きたくなるほど、懐かしい温度を纏っていて。
……届かないと、わかっていても。
それでも、あのときの笑顔が、どうしても消えてくれなかった。
視線が合う。
あの端正な瞳が、僕を見つめている。
……けれど、そこに漂うのは一面の虚空。
それでも、心が裏切るように、喚きたくなる。
『お願いだから、戻ってきてよ』って。
――その皮を、被っているだけだというのに。
その事実が、残酷に僕の心に突き刺さる。
だけど……。
想い出は、もう足枷にならなかった。
むしろ、決意をひしめかせて、僕を押し上げる。
頬が、かつての衝撃を糧に凍てつく。
平手打ちの余韻を、爽やかに香らせて。
深く、息を吸う。
呑み込んだ余韻が、身体に灯をともす。
今度は、僕が。
僕が、エミレを――殴るんだ。
「およよ?
やぁっと、キミ……準備が整ってきたのかなぁ?」
声が、ねっとりと絡みつく。
狂気と、興奮を混ぜ合わせて――
「じゃ、いっちょ死んでもらいますかっ!」
乱舞を織り成す。
彼女の影が、跳ねた。
嵐を巻き起こすかのような勢いで、
笑顔のまま、身を粉にするように激しく、容赦なく。
爪のように変形した刃が、横薙ぎに僕を襲う。
……ぎゃちゃりっ。
骨が軋む。ひしゃげる。嘆く。
ふと音につられて、視線を移すと――
腕が再び、逆関節に折れ曲がっていた。
だが、彼女はそんなことをつゆほども気にせず僕に迫る。
ぶらりと垂れ下がっていた腕は、跳躍と共に引きずられて、
骨が皮膚の内側で擦れ合う音が漏れ出る。
粘り気を帯びて呻き、まとわりつくように。
それがまるで、彼女の『中身』が壊れていく合図のようで――
にもかかわらず、彼女は唇を耽美に歪め、嘆息する。
「みてみて、ねぇ、これっ」
腕をぶらぶらと振って見せびらかす仕草は、どこまでも愉し気で。
血も痣も悲鳴すらも、彼女にとっては余興にしかすぎないと、小さく諭す。
「まぁた、戻っちゃったぁ!!
ほんとおに、だめだなぁ。この子。」
無邪気さと狂気の境界が、ぼろぼろに剥がれ崩れていく。
そして、それを体現するかのように――痣が広がる。
腕の痙攣と呼応するかのように、じんわりと、でも確実に。
白い肌の中に染み込む、紫色の異物が滲み出た刹那。
空気が戦慄する。
視界すら震えて見えるほどに、彼女の存在が異常で。
なにより、痛々しくて。
……見ていられなかった。
「エミレ、なんでっ……!?」
喉の奥が焼けるように熱くなって、苦しみがひと粒、嚙み潰される。
祈りのようで、絶望のようで、どこにも届かない
――おかえり、の代わりにこぼれた叫び。
けれど、その言葉は。
まるで、薄氷に落ちた花弁のように――音もなく砕けて、濁流に呑まれた。
泡沫のひとつさえ、残せない。
忘れられるために、産まれたみたいに。
……期待なんて、とっくに捨てたはずだった。
でも、心の奥では、まだ手放せずにいた。
一瞬でいい――瞳が、揺れてくれたなら。
それだけで、よかったのに。
だから。
あの笑顔が歪んだ時。
……僕の中で、何かが、崩れた。
花弁が泥に塗りたくられて、存在が騙されるように。
静かに、でも確実に。
僕の色が、剥がれ落ちていく。
――やっぱり、届かなかったんだ。
「あ、そうそう!!」
唐突に跳ね上がる声。
空気を切り裂くように、軽やかで、そして妙に場違いで。
まるで、寸劇の台詞を思い出した役者のように。
感情の裏打ちをひつようとしない、しがらみを踏みつけるような抑揚だった。
一歩、近づく。
ただの少女が、街角で気に入ったおもちゃを見つけたかのように、軽やかで。
その足取りに、殺意も怒気も乗っていないことが、妙に背筋を逆撫でる。
「ね、さっきから思ってたけど。」
こくり、と小首を傾げる。
その仕草に、ほんの一瞬――エミレの面影が重なった気がして。
色褪せかけた僕の心が、ふわりと緩む。
面影に撫でられるような暖かさを添えて。
彼女の目が、ゆっくりと僕を見据える。
深紅色に染まった瞳が、どこまでも透き通っていて。
――ほら、やっぱり。
いるんだ。
まだ、あの奥に。
いつものエミレが、眠っているんだ。
希望が揺れた。
そして――彼女が、微笑んだ。
あの頃と同じ――
いたずらっ子のような面持ちの奥に、向日葵が咲くような笑顔。
手を伸ばせば、すぐそこに笑顔がある――そのことが、どれほど嬉しかったか。
「……エミレって誰?」
僕は酔ってしまっていた――
この世界に、まだ、彼女がいると思い込むほどに。
頭の奥が激しく揺れ、全身を硬直させる。
身体の奥に咲いた希望が、踏みにじられた確かな冷たさを帯びたまま。
そして、そんな僕を見つめながら。
彼女は――なおも、微笑んでいた。
それは、エミレの笑顔なんかじゃない。
ただ、壊れたお人形が、口角を釣り上げただけの『嘲り』だった。
「なーんてね!
知ってるよぉ~?」
うわずった声高が、耳の奥を擽った。
彼女の頬が、ぴくりと跳ねる。
それが、笑顔という皮を無理やり、張り付けているようで。
「この器の名前、でしょ?」
その瞬間、何かが瓦解する音がした。
濁流が堤防を壊して、町を呑み込むような悍ましさと共に。
……うつわ?
エミレじゃなくて、器?
飴玉のように、何度も言葉を反芻する。
そのたびに、痺れと痛みが全身を喰らう。
「――そんなの、必要ないのにね。」
無慈悲に、優しさを取り繕った祝詞。
掠れたその声が、やっと僕の目を覚ます。
心の奥で、何かがぽきりと折れた。
音は、しなかった。
けれども、それは僕の奥底で、静かに染み込んでいく。
混沌のその先に――
世界が、静寂に包まれた。
風が止まる。
じっとりと動かなくなった空気が、ただ佇む。
無を孕んだその様相が、僕の心の痛みを消し払う。
少女が、続けて何かを喋る。
繊細さで、奥に潜んだ狂気を紛らわせるような無意味さが響かせながら。
けど。
「もう、いいや」
最後の一枚が、引き千切れた。
認められなかったその現実が、静かに心に溶け込む。
濁流に騙されてた。
怖かった。
枯れた希望に、縋ってしまっていた。
でも――
こいつは、エミレじゃない。
そう、認めた瞬間だった。
意識の深部から、名前のない感情が――溢れ出す。
心の中を、全身を巻き込んで、渦巻き、強く奔流する。
僕の足元から、風が昇った。
空気が、一瞬、凍る。
「エミレじゃないなら……遠慮なんて、いらないよね。」
刹那、僕の身体は、冷気に包まれる。
氷の予兆を孕んだ雲が、全身から立ち昇る。
「紅雪龍牙」
吐息よりも先にこぼれた、祈りのような詠唱。
湧き出た感情が、導く氷柱。
リュドエールルを、振り下ろす。
激情に身をゆだねず、軽く、なめらかに。
ただ――まっすぐと貫くために。
凍てついた刃から、氷が飛び出す。
矢のような速さに身を乗せて、鋭く、淡く。
竜牙のごとく、少女をめがけて宙を翔る。
鋭利な殺気を振り回しながら。
旋風を切り裂く音と共に、氷柱がひとつ、少女の側頭を見据える。
少女の目が、見開かれる。
虚意を突かれたような表情――だが、そこに怯えはない。
まるで、風が頬を撫でたかのような不可解さ。
そのざわめきに、彼女はほんの少しだけ、口元を濁らせる。
「……ふうん。」
刃は――赫く、染まらなかった。
氷柱が、少女の側頭を掠める。
そうして。
竜牙が喰らうは、ひと房の髪。
ふわり、ふわりと。
未練がましそうに、風と共に箒のごとく飛び立つ。
「これは――エミレへの手向けだ。」
目で追ったその白銀は、雪の名残を纏って――
そっと、喪われた。
息を吸う。
肺に入り込んだ冷たさが、妙に心地が良かった。
目の前にいるのは、もう……『エミレ』じゃない。
遺された虚空が産んだ何かだ。
でも――信じたいから。
あのとき、笑ったエミレを。
僕の手を握ってくれたエミレを。
そして、何より……平手打ちしてくれたエミレを。
この手で、エミレを取り戻すんだ。
全身が、揺すぶられる。
研ぎ澄まされた刃を軋ませて。
「エミレは、殴る。」
「でも、お前は」
「ぶちのめす。」
そのとき。
――ぽたっ
静かな、重い音。
まどろみのなかで、一閃がこぼれる。
……少女が、泣いていた。
見て見ぬふりをするように、肩を震わせて。
でも、それに気づいたのは――彼女自身ではなかった。
「……え?」
声が歪に蠢く。
壊れた人形が、己の異質さに戸惑っているように、震えながら。
ひとしきりまつげを濡らした雫が、頬を伝う。
それはあまりにも無自覚で、あまりにも純粋で。
宝石のように輝いていて。
理由を知らぬ、痛みが叫ぶ。
殺めるはずだったその眼で。
「やだ……やめて。」
嗚咽じゃない。
一筋の抵抗。
虚空に吹き付ける、小さな吹雪。
「やめてって、言ってるでしょ!!」
叫ぶように縋りついたその声が――過ぎる。
それはきっと、意識の奥底に眠っていた誰かが、
シルアの言葉に、心ごと引きずり出された証。
在る。
……エミレだ。
凛と研ぎ澄まされた意識が、少女を駆け巡る。
「まだ、純度が薄い。」
ひとりごとが、吐かれる。
自分自身を透かして、観るようにぽつりと。
笑い声。手の温もり。言葉の律動。
そのすべてが、
――まじっている。
巡りまわる『エミレ』の残滓。
身体の隅々で脈打つ拍動。
「……あの子が混じってる。」
言葉とともに、顔をゆがめる。
まるで毒を吐き出すように、唇が震えた。
「殺さないと……!!」
その言葉は、呪いだった。
羨ましさをすりつぶした詞。
胸の奥で、何かが燻って、ぐずぐずと溶けていく感覚。
冷たいはずの涙が、なぜか熱かった。
――壊れかけた炉のなかに、最後の火種が灯されるように。
「殺さないと……生きれない。」
息が詰まる。
鼓動が軋む。
涙がこぼれるたびに、『エミレ』が滲みだす。
「――生きちゃ、いけないのっ!!」
世界に突き刺さった慟哭。
それはもう、願いですらなかった。
ただ、終焉を乞うような嘆きだった。
刹那。
虚空に、火が付く。
少女の胸元に宿る――八芒星が赤黒く灼ける。
全てを焼き払う無。
もう、華ではなかった。
過去も、記憶も、『エミレ』も――
混じった残花すらも、否定するために。
きっと、消えたいわけじゃない。
……消えないと、いけなかった。
それが、虚空の成れの果て。
嘆きが、自分事焼き払おうとしていた。
でも。
届いていた。
ほんの、少しでも。
涙の奥に、誰かがいたこと。
叫びの中で、誰かを求めていたこと。
だから、今こそ――
「殴れ、エミレを。」
リュドエールルが、微かに振動する。
まるで、問いかけるように。
――これで、いいのか?
だけど、迷いはなかった。
応えは、とっくに決まっている。
「蒼焔竜舞――火嵐よ、水と包み込め!」
虚空の焔と対峙するかのように、火嵐が舞い落ちる。
烈火の皮を脱ぎ捨て、静かな葉脈を纏って。
それは、破壊のための魔法ではなかった。
ただ、ひとりの少女を――掬い上げるための技。
彼女の苦しみに寄り添い、その叫びをそっとなだめるように。
――そして、潤すように水が滴る。
焔を撫でて、蒼く沁み込ませる。
忘れ去られし空白へと、彼女を運ぶように。
――包み込め。
守るべき彼女を。
言葉も、名前も、痛みも。
今は要らない。
まどろみのなかに、そっと戻すように。
今はただ、眠らせるように。
「エミレ……おかえり」
返事は、なかった。
ただ、僕の腕の中に広がるのは――
微かな体温と、遥かな眠りの気配だけ。
……けれど、それすらも、
静かに、犠牲のなかへと誘われていく。
掬い上げたはずの命が、まるで報いのように。
僕の掌から、少しずつ、零れ落ちていくようだった。
ご覧いただき、読んでいただきありがとうございます。
どうも、ルアンです( ̄^ ̄)ゞ
やぁあ、お疲れさま。
今回はけっこう濃かったでしょ?
深呼吸して、ゆるっと余韻に浸ってくれたら嬉しいぞよん。
……いやほんとね、今日語りたいことは全部あとがき(別ページ)に詰め込んだ!!
もう限界よ、10時間以上戦ってたwww
あとがきでは、和歌の話やら、描写の濃さの理由やら、
あと感情のゆらぎについてもちょろっと語ってるから、興味あったらぜひ↓
あとがきリンク
https://ncode.syosetu.com/n9016kh/42/
(シリーズ一覧からでも飛べるよ!)
風邪、だいぶ良くなってきたよー!!
待っててくれた君、本当にありがとう( ; ; )
今日も早寝して、明日も元気に生きるっദ്ദി ˉ͈̀꒳ˉ͈́ )
ではでは、遅れてしまったけど!
魂を込めて、20時投稿!
本当に楽しかったーーーっ!!((反省しろww
にしても、私にとって今回すごい節目な気がする。。
マジで過去1時間かけたし、新たな感覚も掴めたし。
まだまだだけど、また一歩進めたかな。
多分これ風邪で休んでたおかげな気がする。
君にとってはどうかな?
新たな感情に出会ってくれたら、この子達により深く触れてくれたら。
本当に嬉しいよ。
これ以上にない幸せだよ。
さてさて、次回は――
いよいよ期末前の最後の更新になりますっ。
木曜日か金曜日更新あたり...です!
ドウア国前編直前での、おやすみになるけど!
君たちにその間は任せたっ!!
ルアンは副業も頑張ってきまっせ(๑و•̀ω•́)و
期末後は、7月16日予定かな!!
でも、
その間に世界観解説もあげてくから待っててね!!
ではでは、今日はここまでっ!
今日も読んでくれてありがとうございます(*´꒳`*)
明日から平日。暑さと風邪には気をつけて!!
無理せずに!!
じゃ、
またねっ!!ヾ(≧▽≦*)o




