第三十三話 覇者よ、踏みし雪の果ての濁流は誰が骸を隠すや
SIDE ショーン
「お邪魔しちゃうね、ドラゴンくん。」
その一言と同時に――エミレは口内へと身を投じた。
空気が変わる。
赤黒く染まった視界――脈打つ肉壁がぬめり、粘液が糸を引いて揺れる。
一歩踏み出すたびに、湿った舌が靴底を這う。
時折、吹き抜けてくる吐息が、彼女の身体を舐めまわした。
ねっとりと、錆びを嗅ぐわせて――その奥へと誘うように。
――ギャアアビイィイ!!
唐突に、喉奥から響く咆哮。
天井が震え、肉が波打つ。
鼓膜が破れたと錯覚するほどの警戒音。
そこには――咽頭から掠れ出た、ありったけの本能が込められているようで。
「こりゃ……拒まれてるのか、はたまた歓迎されてるのやら。」
エミレは、ぽつりと呟く。
僅かな悪寒を切り捨てるように、笑みを込めて。
足を進めるごとに、空気が濃くなる。
血と胃液の湿気が混ざり合い、五感を痺れさせた。
――ググッ……ガッ。
咽頭が、鼓動と共に律動する。
収縮しては、開き、収縮しては、また開き――。
『飲み込む準備』を進める。
そのたびに、肉がひときわうねり、圧を磨ぐ。
尖った重厚感は、彼女の肺を突き刺し、威嚇する。
それでも。
エミレの瞳に、迷いなどない。
火の余波、湿った暗闇へ足を踏み出す。
一筋の光を描いていくように、力強く、まっすぐに。
「さっ!
ちょっくら行きますか――心臓まで。」
手足をたたみ、身をすぼめると、
その身を……宙に晒す。
――ぶちゅり。
粘膜が唸り、熱を持った肉が彼女を囲い込む。
ぬるりとした圧が、彼女に浸透する。
喉が、彼女を受け入れるようにゆっくりと蠕動を始めた。
周囲がぎゅう、と狭まる。
全身が押しつぶされ、
その隙間から、髪へ、服へと――唾液がなだれ込む。
気色の悪さと息苦しさが、彼女の意識に巻きつく。
が、彼女の目は変わらない。
(喉にはなんとか、入れた。
……小さい身体が役に立つなんて、癪だけど。)
包み込むは、沈黙。
胎児に還ったような静寂は、ゆっくりと微動する。
ただひとつ、息をひそめた光の筋へと。
ふいに。
――ずる、ずちゅる。
粘膜の圧が弱まる。
と思うや否や――
「落ちるっ!?」
重力が、身体にのしかかってくる。
狭く、湿った管に全身を撫でまわされながら。
急降下するわけでもない。
かといって、自分で歩けるわけでもない。
ただ、喉にゆだねられた航路に身を任せるだけ。
ぐぼん。
着地と同時に、空間が広がる。
「ゲホッゲホッ」
エミレの肺が軋む。
水気を控えた空気が、久しぶりに彼女の肺へと触れ、ゆっくりと目覚めさせる。
開けた視界の先には――泡立つ液体と、内壁に刻まれた無数の皺。
硫黄と、鉄の混じった匂いが鼻を突く。
焦げた肉と崩れきった残骸が、あたりを公然と漂っていた。
(ここは――胃か)
エミレは手を広げ、雰囲気を悟る。
熱く湿った蒸気。ぬめりとした感触。
そこから、漏れ出る皮膚が爛れるような刺激。
そのすべてが、エミレを異物として扱い、なおかつ溶かそうとしてくる。
じんわりと、けれども確実に喰らわんと、纏った空気が刺してきた。
(時間が、ない……!!)
彼女は、布で口元を覆うと、足早に歩を進める。
沈み込む脚。
胃液が、ぬるりと太腿まで這いずり上がる。
まるで、死へと引きずり込む無数の手のように――。
しつこく何度も何度も。進むたびに絡みついてくる。
ぽつり。
額を伝った汗が、酸に触れ、じゅっと音を立てた。
だが、彼女は顔をしかめることなく、むしろ目を細める。
(どこかに、あるはず。
――私の仮説が、正しければ。)
迫ってくる焦燥が、彼女の思考を潤す。
独り歩きをしている確信に沿うように、彼女は征く。
もう少しで、酸の海を抜けるというとき。
……トック。
鼓膜が、微かに揺れる。
エミレの目が、鋭く光った。
もういちど、耳を澄ます。
……ドクッン。
「やっぱり」
エミレの頬が、緩む。
確信が――証拠に変わった瞬間だった。
音が呼んだ方向へと、彼女は駆け出す。
粗を見つけたような意地の悪い笑みを浮かべたまま。
「あ、みーつけたっ!!」
泡の沸き立つ奥壁。
そこに、周期的な鼓動が――埋まっていた。
その壁だけが、他と異なっていた。
壁が薄く、拍動のたびに、小さな隙間が、開閉を繰り返す。
まるでこっちが『通路』だと、手招きをするように。
明らかに、造られた道。
生きている龍の心臓へと続く――唯一の導線。
「……」
彼女はただ、黙っていた。
肉扉を鋭く見据え、
何かに区切りを付けようと、振り払おうと葛藤するように。
「まだ、だから。」
妙に張った声が、胃を轟かす。
心なしか、その影が揺れた。
けれども――
ぺろり。
通路の肉片が、舌のように蠢き、エミレの指先をなぞった。
「うげっ」
舌を小さく出しながらも、彼女は臆せず前へと足を踏み入れる。
狭い。
ぬるい。
なにより――近い。
圧を振り回し、本能と造物の間を彷徨う叫びが。
四肢を絡めようとする肉の締め付けを、手で裂きながら進む。
呼吸が浅くなり、酸素が薄くなる。
上がった体温が、さらに空間と共鳴する。
もう、すぐそこに――ある。
「初めまして。」
恭しく一礼。
彼女の顔には、張り付いた穏やかさが。
「いや、きっと――久しぶりが正しいのかな。」
顔をあげる。
その先には――心前と、その周りを覆った鉄の塊が。
露骨に強く、激しく、高鳴っていた。
「創無花――虚空よ、咲け。」
静かに告げる。
その声に、空気が一瞬だけ歪む。
だが。
無を携えた花が――しぼむ。
「だよねぇ、知ってた。
けど――」
「信じたくない、な」
エミレは、壁に手を当てる。
掌に伝うは、生き物のような鼓動。
熱く、ぬるく――痛い。
小さく呻きながら、壁に体重を預ける。
どこかに想いを馳せるような哀愁を漂わせて、そっと。
「……」
確実に、虚空が淡すぎる。
あまりにも、味気なく、冷たくて、優しい、それが。
鉄壁に――許されていなかった。
ただ、それは彼女にあることを訴え続ける。
「これも、覇者ゆえ……なのかな」
震えた吐息。
少女は、ひと時の間、俯く。
でも。
「ふっ。」
彼女の口元に、ふっと笑みが浮かぶ。
薄氷のように張り付いたそれは、残酷に繋がれる。
「それでも、私は――」
「笑わないとね。」
こみ上げるものを抑えた声で――
言い聞かせるように、おまじない。
覚悟を決めるための。
次に、託すための。
ほんの少しの――祈り。
紛れもない、誰かへ手向ける花束。
「虚空よ――すべてを搾り取って、爆ぜろ。」
言霊が、産まれる。
無の花が――乱れ咲く。
色も、熱も、匂いもないはずの花が、世界のすべてを吸い込んでいく。
ゆっくりと。
静かに。
確実に――空間が、華に蓄えられる。
沈んだ質量が、色が、鼓動が。
断末魔のように、虚空を彩る。
そうして――乱舞の跡に、蕾を芽吹かせる。
刹那。
――バキャン。
爆ぜた。
音というには鈍く。
存在というには不完全で。
破壊というには、脆すぎて。
虚空の花が、散った。
まるで――花火のように。
光の玉が弾け。
雪のように塵が舞い。
……虚ろに千切れた。
残ったのは、ただひとり。
血に浸り、静かに佇む――少女、エミレ。
シルアの目に、安堵が宿る。
「おかえり、エミレ!!」
歓喜とも、悲鳴ともつかない声が飛ぶ。
「キャルルーピアッ!!」
シルアがエミレのもとへと駆けだしたその時。
――千切れた
シルアの肩から、腹へと斜めに走る――亀裂。
薄くても、斬られた事実だけが、鋭く深く、そこに在った。
その刃は、いったい、誰のものだったのか。
「え……み、れ?」
ようやく出た声。
それは、まるで自分から出てないようで。
目の前の少女が、ゆっくりと振り向く。
影が、揺れる。
「えっと、君たちは……?」
その瞳は――空っぽだった。
剝ぎ取られたような声。
重みが、ない。
暖かさが、ない。
「まぁ、いっか。」
無邪気な声。
否、好奇心を……悪意を植え付けた声。
唇が、ぐいと引き攣り――笑う。
「だって――殺しちゃえば、いいだけの話だもんね?」
……キャハ、キャハハハハハハハハハハ!!
崩れるように、音が笑いを巻き起こす。
耳の奥が、割れる。
鼓膜が、はち切れる。
もう、そこにエミレは――いない。
混沌の鐘が、鳴った。
どこか遠くで、
けれど確かに、この世界の底を叩くように。
それは――警告でも祈りでもなく、ただの『始まりの合図』。
引きずり下ろされるは、
闇の深淵より現れし――呪印の片鱗。
皮膚の下から、這い出すように浮かび上がる。
それは血管にも似て、文字にも似て、命令のようでもあった。
黒く、碧く、赫く――どれでもあって、どれでもない。
それは、『意味』を拒む模様だった。
そして、世界は染まる。
雪は、舞いながら散った。
冷たく、淡く、最期の希望のように。
だがその美しさすら、すぐに――紅く、碧く、黒く、塗り潰される。
濁流が、生を得た。
虚空に宿った命が、意志を持って蠢き出す。
混沌は、もはやただの象徴ではない。
『それ』は生きている。
吐息をし、脈動し、飢えている。
やがて。
紅も、碧も、黒も、
蠢きあって、打ち消しあって――透明になる。
災厄が、空間の縁を飲み込んでいく。
あらゆる境界が虚へと溶けていく。
そして、『虚空』は語るように、微かに嘲笑う。
――もう、止まれない。
それは呪いの断言。
静けさだけが、余韻として残る。
音のない、嘆きのような余白が。
読んでくださり、ご覧いただきありがとうございます。
ルアンです(*ᴗ͈ˬᴗ͈)⁾⁾⁾
ええ、私からは、何も申し上げられません。
...言えねぇよなんも。
言いたくても、堪える。
噛み締めてみて。
信じてみて。
それだけ、しか....言えない。
だって、今の君たちに、あの子たちにできる最大限の手向けなんだもん
大丈夫、私は、君たちを抱きしめているから。
うん。
整理なんて、つけなくていいよ。
がむしゃらに、ルアンを殴ってもいい。
でも、待っとるからね。
今度はあとがき仕込んで、全力で。
本当に読んでくれてありがとう。
また、金曜にね




