第89話 ESCAPE
洞穴で瑠美奈が過ごした。小さな体で父親にすり寄っていたかもしれない。まだ人間になることが出来ずに角を見せていたかもしれない。鬼殻が妹を苛めていたかもしれない。そんな微笑ましい光景が幻影で見える。
廬は本を研究所に持ち帰った。妖狐は息子の勇猛果敢な姿を見ると言って姿を消した。色褪せた本のページを捲る。百年前か千年も前か、どれ程前なのかは分からない。文字が読める事が奇跡だと思うほどに古い文字が綴られている。
「わっ! 懐かしい!」
「えっ……」
研究所のエントランスに置かれた椅子で本を捲っていると佐那が歩いて来た。その近くには聡がいる。
「懐かしいってこれが?」
「うん。御代志鬼の物語でしょう?」
少しだけタイトルが違うような気もするがきっと内容は同じなのだろうと廬は知っているのか尋ねる。
「お母さんが昔読んでくれたの。悪い子には御代志鬼が襲って来るんだよって」
御代志町の人は誰でも知っている物語。
「結末は?」
「結末? えーっと……なんだっけ確か、共倒れだった気がするけど」
「俺は、若い男が鬼を退治してハッピーエンドって聞いたよ?」
ハッピーエンドだったり、共倒れだったり、家によって物語の結末は違う。
誰が書いたのか。若い男がコレを書いたのか。それとも別の、赤の他人が適当に書き綴ったものなのか。今では調べることはできない。偶然広まった事を調べる方法などない。
「けど、きっと鬼は悪い人じゃなかったと思う。村の作物だって限定していなかったわけでしょう? 国の税金と同じよね。村に近づいて来る獣を追い払っていたと思うし……きっと良い人だったと思うな」
佐那が言う。
この本の鬼が瑠美奈の親だと知ったら「ほらね!」と大喜びしそうだ。
愛している娘の父を下手には言えまい。
「不器用なんだ。この鬼は……、本当は人間と仲良くなりたかったはずだ。だけどその方法を知らないから傲慢不遜な態度でいるしかなかった」
対話が必要だったが対話をする機会をことごとく鬼は壊してしまった。
「それより、糸識さん。本当にあの自称魔術師は信用できるの?」
「俺はミライを信じてる。あいつは良い奴だよ。だけど、それを強要しようなんて思ってないから安心してくれ」
ミライは確かに新生物でもなければ旧生物と断言できるかも分からない。
第三勢力と言っても過言ではない。しかし、その第三勢力が存在すると厄災が起こってしまうのは必然だ。ミライは誰にも魔術の方法を教えたりはしない。
世界を変えるわけではなく自分が求める時間に行くことを目指している。時間旅行者と言うべきなのだろう。
廬は佐那に何も心配はないと言って自分の部屋に向かった。
翌日、廬が目を覚ますとミライの顔面があった。
「なにしてるんだ」
夢遊病でも患っただろうかと焦るがミライは「朝チュン」と呟いた。そんな事実はないとベッドの上から降りるように言った後、再度何をしていたのか尋ねる。
「いや、簡単にこの研究所に入れると思って」
研究所の警備システムの試験をしていたが、呆気なく簡単に侵入できてしまったことに失望したとミライは言う。これでは宝玉を守るどころではないと廬が叱られた。
「ああ、安心して何もしてないから」
「それを聞いて安心した。……はあ」
廬の部屋に簡単に侵入して来て物音一つ聞こえなかった。廬がそれ程熟睡していたのか。
「あたしね、考えたんだけど……どうせなら、所長さんにも筥宮に来てもらったら?」
「どうして?」
「その方が効率的じゃない? 二か所に宝玉がある。しかもどちらに来るのか分からなくて緊張感に苛まれたままって嫌じゃない?」
「だが、一網打尽に遭うかもしれないだろ?」
「何のためにあたしがいるのよ。あんたたちくらい守って見せるわよ」
心強い事だ。
朝チュンとか言ってベッドに乗って来た女とは思えないほどには強い言葉だった。
「それに此処にも小さい子供がいるんでしょう? 鬼殻が血も涙もない奴なら子供だろうと殺すんじゃない? 特にこだわりが強い新生物ならなおさら」
美しさに固執している鬼殻が親切に新生物の子供たちを生かしたままにするか。
「けど、佐那は所長だ。此処を離れるわけにはいかない」
「それで死んだら意味がないって言ってるのよ? 暫くの間、所長が居なくなってダメになるような組織なら元から無くなってくれた方が良いわ」
筥宮に佐那を連れて行くことは出来るだろう。しかしそれが鬼殻の思い通りだった場合、襲撃に遭ってしまう。
いつ来るか分からない。廬たちに調子を合わせてくれるわけもない。
「何もしてこない今のうちに」
「もう暫くだけ待ってくれないか?」
「暫く?」
「俺が此処で調べたいことがあるんだ。それが終わったら佐那と話をしてみる」
「……まあ、良いけど」
まだ調査しなければならないことは山ほどある。
「それと頼みがあるんだ。暇な時間で良い」
「? まあいつも暇よ。此処、何もないんだもの。ゲームセンターの一つあれば時間を潰せたのに」
こんなに田舎なんて聞いていないと不機嫌になる。
時間をつぶしたいのなら、駅前の噴水広場にたまに販売車が停車してることを伝える。それでも時間が足りないのならヴェルギンロックで何か注文して時間を潰すしかないとアドバイスをした。
そして、廬は再び洞穴に来た。今回は既に妖狐がいた。
「憐はどうした?」
「追い出されてしまってのう。母は悲しいぞシクシク」
一晩で筥宮にでも行ったかのように妖狐はしょんぼりとしている。
「元気だったのか?」
「うむ。いつも通りじゃった。だがま、少しだけ妖力が減っている気もしたでな」
「妖力。青の宝玉が奪ったからか」
「かも、知れぬのう。まあ、減って死ぬようなこともなかろう。妖力が戻るまで、暫くは万物をも化かすなど嘯くことも出来ぬな」
青の宝玉の影響がどれ程の物か分からない。
鬼殻さえ騙せたらいいのだ。さとるならばその程度を測れるだろうし、儡だって憐に無理をさせない。
妖狐はきっと息子の話がしたいのだろう。誰も相手にしてくれないから廬のもとに行くしかない。廬が誰の話でも聞くと思っているのだろう。
「娘子は、此処での事は憶えておらんじゃろう。しかし、あの小僧はどうじゃろうな」
「鬼殻のことか?」
鬼殻は憶えているかもしれない。かつてこの場所で暮らしていた。現代ではあり得ない野宿。家が洞穴と言う事を受け入れていたのだろう。当時は、きっと美しいものなどに執着などしていないで、ただ家族と過ごせることを幸せと感じていたかもしれない。生まれながらに性格が最悪だった可能性もある。
「お前と鬼殻の関係は?」
「わしか? わしはどうにもあの小僧に嫌われておるのじゃろうな? 一度として会ったことはない」
「会おうとは思わなかったのか?」
「ない。わしに重要なのは坊やだけじゃ」
鬼殻は妖狐が嫌いだった。
「お前ほどの綺麗な女性を嫌うなんて見る目が無いな」
「ほほほっ! そう事実を褒めるでない。人妻を口説いた所で何にもならぬぞ?」
「そうだ。お前の旦那は?」
「死んだ。別に驚くことでもなかろう?」
憐の父親が死んでいる事には驚いたりしない。
「人間を好きになるって意外だ。遊ぶだけの道具だと思っていたんだけどな」
「わしだって恋する乙女ぞ?」
「悪かった」
その後、廬は洞穴を調べている間、妖狐と他愛無い話をした。
憐の父は迷子になっている男だった。人間のふりをして近づいて、うっかり惚れこんでしまった。それだけの事だと妖狐は語る。
それで子供を産むほどの関係になっているのだから相手を相当愛していたに違いない。
「どうして研究所に?」
「うむ。鬼の奴が行くと言うからついて行った」
「それだけか? あの場所で何をされるか知っていたんだろ?」
「知っておったが、わしには坊やが生きておる事以外に興味が無いと言っておるじゃろ?」
退屈だったのもあるし、研究所に捕らえられていたら食事は勝手に出て来る。自分で食事を探すのが面倒なら品質の高い食事が出て来る研究所に収容される。
人間を愛して、生んだ子供。なんだかんだ言っても息子を大切にしている妖狐はまだ人間味があると廬は思う。
「一つ訊きたい」
「答えるかはわからんぞ?」
「……。お前はもし今回憐が死んだらどうする?」
「そうじゃのう。手始めに研究所を崩壊させるかの。して、次はこの町を滅ぼし、筥宮の道すがら全てを殺していく、筥宮を破壊して、最後はこの世界を滅ぼすじゃろう」
「自ら厄災になるって?」
「厄災? 冗談を言うでない。この程度で厄災などと言うでない。そうじゃのう。わしは祟りじゃ」
我が子を人間に預けた結果、そうなってしまったのなら忌み嫌い。人間を滅ぼす。
怪しい微笑を浮かべて「だから」と妖狐は続けた。
「おぬしがこの人類を救うのじゃ。娘子を救うように、おぬしは世界を救う救世主になるのじゃぞ?」
責任重大だ。
憐が死ねば妖狐は気が付くだろう。言い訳など意味がないほどに憤怒する。
憐が死ねば、妖狐は厄災となって世界を滅ぼす。
これほど身近に厄災になる逸材がいるとはと廬は苦笑する。
「譲歩はないのか?」
「譲歩? 慈悲を求めるのか?」
妥協。譲歩。なんだっていい。鬼殻が憐の持つ宝玉を欲しているのなら死んでしまう可能性だってある。鬼殻ならば妖狐を退ける事が出来るかもしれないが、そうなれば瑠美奈を救う手立てが無くなってしまう。
「そうじゃのう……ならば、おぬしに一つ譲歩とやらをくれてやろう」
妖狐はそう言って憐が死んだ際の譲歩を口にした。
それは、憐が万が一人間の誰かを助けた時に死んだ場合だった。
旧生物を嫌う憐がそんな事をするとは到底思えない為、万が一にもあり得ない。
しかしながらその一があった場合、妖狐は厄災にならない。祟りを起こさないと言った。
「坊やの成長が目を見張るのう」
「はははっ……生き残れる自信がないな」
生き残る為にはと廬は研究所に戻った。




