第66話 ESCAPE
(俺、何をしてるんだ)
六畳間の部屋の壁に背を預けて座る。見慣れた部屋。
覚えのある部屋なのに何処か他人の部屋に来ているようだった。
雨で濡れた身体を拭くためにシャツを脱いだ。母親はシャワーを浴びている。
その間に廬は布団を敷いて、簡易的な物を作り置く。きっと男に手料理を御馳走する為に用意された食材だろう。冷蔵庫に手つかずで残されている食材を切ったり焼いたり、茹でたりをする。完成した物は一度冷まして保存容器に移して冷蔵庫に入れる。レンジで温めたらすぐに食べられるようにだ。
「なんか……ごめんね」
「別に……俺はもう出るんで、寝るか食べるか好きにしてください」
少しだけ乾いた服を着て廬はホテルに行こうと玄関の扉を開こうとすると母親が引き留めた。
「今日は一緒にいない? ね? 今日くらい良いじゃない。あの子たちだって分かってくれる。賢そうだったものね」
瑠美奈たちの事を言っているのは分かった。確かに廬が一人いなくても問題はない。
だが今はダメだった。タイミングが悪かった。瑠美奈は入院中。研究所の襲撃者の事や、ビルの件も伝えなければならない。
「悪いけど、もう貴方と関わりたくない。今日は流石にみすぼらしい姿をしていたから連れ帰っただけだ。もう貴方に会っても相手にしない」
「廬まで私を捨てるの? どうして、私がダメな女だから? ねえ、お願い行かないでっ!」
服を強く掴んで放さない。
「お願い。独りにしないで、廬」
「貴方は俺を一人にしたでしょう。俺が入院していた時、貴方は一度だって来なかった。今更その事を引き合いにだすのも大人げないと思いますよ。だけど……俺だって一人だった。心細かったのを貴方は世間体だけを気にして俺を放置した。何かしてほしいならまず自分からするべきだ」
今更何を言われても廬の心は揺るがない。
「私が……死んでも良いっていうの? 親不孝じゃない」
「……ッ。勝手な事を」
「貴方が幾つになっても私の息子である事に間違いないのよ。私が死んでいるのを誰かが見つければ貴方は咎められるのよ」
「きっと俺は不問になるでしょうね」
廬は研究所の職員だ。どれだけ下っ端でも政府は新生物に関する研究機関を捕えたくないだろう。もしも重要研究者だった場合、厄災を止める術を失われてしまう事を危惧しているからだ。
それに今は御代志研究所は所長が不在だ。佐那に関してもまだ研究所の状況を把握するには時間がかかる。そんな中、研究所の職員が逮捕された日には政府も気が気じゃないだろう。それも民間人の勝手な死亡で廬が自暴自棄になり不当な新生物を生み出している事を公にするかもしれないと恐れている。
廬がどれだけ言っても母親は放してくれない。呆れ果てていると家の固定電話が音を立てる。泣きじゃくる母親が出るわけにもいかず廬が諦めて玄関から離れる。
受話器を取り耳に当てると聞き覚えの声が聞こえた。
『よお、廬。母さんを困らせてないか?』
「……なんで俺が此処にいるって知ってるんだ」
『そりゃあ俺はお前だからだ。お前の行動する事はたいてい知ってるぜ?』
偽廬からの連絡だった。もしもこれが母親が出たら大変な事になると自覚しているのだろうかと廬は顔を顰めながら相手の言葉を聞いていた。
『今、俺は何処にいると思う?』
「知るわけないだろ」
『おいおい、もっと頭を回せよ。それじゃあ面白くならないだろ?』
「……」
廬が何も言わないでいると遠くから『糸識さん、ルームサービス頼んでも良いですか?』とさとるの声が聞こえた。
儡たちがいるホテルにいる事が分かった。
「お前っ!」
『そう怒るなよ。何もしてない。もっとも母さんが死んだら二人はどうなるか分からないけどな』
「俺にどうしろって言うんだ」
『母さんを励まして元気に更生させてほしいかな。俺がやっても良いけど、お前の方が色々と上手にやってくれそうだ』
とりあえず、母親を満足させない限り偽廬が儡たちに何かするかもしれない。
『それじゃあ伝えたぜ。くれぐれも勝手な行動は慎むように』
「待てっ! ……ッ」
無情にも切られてしまい廬は抗う術を失われた。このまま母親を放置したら儡たちが危害が加えられる。もしも偽廬の記憶が廬と同じものなら儡は偽物だと気が付かない。さとるには一応廬に似た襲撃者がいるとは言っているが気が付いてくれる可能性は低い。
結局、母親とその日を過ごす事になってしまった。
作っておいた料理を皿に移して出すと母親は見た事もないほどの笑みを浮かべて廬に「美味しいよ」と言う。
そんな姿は正直見たくなかったと廬は顔を逸らした。
母親は男に捨てられた。裏切られて金を盗られた。一文無しで途方に暮れていた。
金を出せば全て解決する。だがそれでは母親はまた同じことを繰り返すだろう。
金は人を変えてしまう。記憶の中にいる夫婦はいつだって笑顔だった。
子供の扱いが苦手で下手くそに接する母親を廬は憶えている。
その日に戻ることはないと知っている。だから離れたかった。
雨はまだ降り続いている。きっと明日の朝まで止まないだろう。
廬の頭の中には瑠美奈や儡たちの事、それに行方不明の憐と真弥の事で一杯だった。それなのに母親の面倒を見ろなんて難題を偽廬は出した。大切なら自分で対応したらいいと言うのに。
偽廬は何をさせたいのだろうか。偽廬だって儡たちに自分の事がバレてしまえば危険である事は承知しているはずだ。儡とさとるが脅威にならないと思っているかもしれない。廬以上に新生物の事を知っている雰囲気だった。そして何よりも。
(黒の宝玉を持っているかもしれない)
最下層で偽廬は一人だった。つまり保管していた宝玉を盗んだのは偽廬で間違いない。ただの人間と言うなら宝玉は身体を蝕み死んでしまうがそう言った様子は見られなかった。つまり偽廬は旧生物ではない。
「ねえ、廬」
「! ……何ですか」
考え事に夢中になっていると母親が声を掛けて来る。
「ホテルにいた子たちは廬の子供?」
母親らしい会話がしたのか、それとも廬といる空間が居心地が悪いのか。
どちらとも取れる問いかけに廬は素直に答えた。
「俺の子供じゃないですし、連れ子って事でもないです。ただあの子たちは俺の大切な子です」
瑠美奈は当然の事、儡も憐もさとるも聡も佐那も大切な人達である事に間違いはない。新生物であり、廬と関わりを持った人たちは廬には欠かせない存在となっている。
だから廬は必死になる。憐を見つけなければならない。真弥を助け出さなければならない。
「変わったわね。廬、昔はもっと明るい子だった。私の所為なんでしょう」
「……どう答えたって貴方がへこむじゃないですか」
母親の所為じゃないと言っても「優しいね」と寂しそう笑みを浮かべるだろうし、母親の所為にしたら「ごめんね」と落ち込むのだろう。どう答えたって結果は同じだ。




