第204話 ESCAPE
憐は物音の正体を探った。
玄関の入り口を押し開く人物を凝視するとそこから現れたのは、血塗れになった本物の廬と、その背には劉子がいた。
「なんだ。あんたか」
「狐を追いかけろって言ったのはお前だろ」
「言ってないっすよ。ただ迷子のやつを道案内しただけ」
子ぎつねが本物の廬に道を示したお陰で迷わずに来ることが出来た。
教会から二キロほど離れているし、金色の蔓も一度制圧した街に戻って来る可能性は低いだろう。だが、見つかるのも時間の問題だ。
二階建ての家。リビングは荒らされており、血が飛び散っている。地下に通じる道が合ったが、そこに逃げる前に殺されたことが分かる。
「丹下は大丈夫なのかよ」
「さっき起きた」
本物の廬はソファに劉子を寝かせて憐に尋ねた。
憐は、二階の窓から家に侵入していた為、一階の様子が凄惨な事になっているなんて知らなかった。
そして、丹下の容態と言えば、もう自由に動ける身体はしていない。早く適切な治療を施さなければ最悪な状態になる。
本物の廬が二階に向かい確認すると丹下は目を閉ざして眠っていた。胸が上下している為、まだ生きていることが分かる。
「兄貴が、今以上に頑張ってくれるのを期待するでも良いんすけど……流石に兄貴でも無理だったんすかね」
「……どう言う意味だ?」
「兄貴はA型、一切の調整をされていない新生物。それは変わらないんすけど、兄貴は自分の持つ力をしっかり制御出来ないんすよ」
万物の形を変えてしまう。何もかも作り変えてしまう鬼殻の特異能力。
憐は言う。鬼殻が特異能力を制御出来ないのは、そもそもにして鬼殻の力が余りにも大きすぎるから。鬼としての力が強すぎる所為で後遺症程度ではそれを抑える事は出来なかった。
「兄貴が本来の姿になるとき、兄貴は肉体を損傷し続けるんすよ。人間になって力を消費し続けるから、今の状態を維持できる。だけど、もしもこのまま兄貴が本来の力を使う為に、本来の姿で居続ければ兄貴は、人間に戻れなくなる」
「角が生える程度だろ?」
「見た目の話じゃないっすよ。鬼としての在り方、人を嬲り殺す、血の疼き」
鬼は人を殺すことに生き甲斐すら感じている生物。
人間を食べる事もあれば、食べる事をせずに蹂躙する。
下等な生物を屈服させる事で優越感を抱き慢心し続ける。
慢心するだけの理由がある。誰にも屈さない力を持っているのだ。
鬼殻はその疼きを毎日感じている。美しいものを求めて食べてしまうのもそう言った傾向があるからだ。止めようにも止まらない。だから誰かに止めて貰わなければならない。
「本当なら死んだままの方が良かったんすよ」
鬼殻と言う存在は生きていてはいけない。だが瑠美奈は求めてしまった。
厄災によって作られた鬼殻。禍津日神として瑠美奈は作った。
瑠美奈だってわかっていたはずだ。鬼殻が苦労している事を、その感情を抑える事に苦労している事を、それでも傍にいて欲しいと思った。父を食べてしまった、母を失った。その要因が全て鬼殻にある事を知っていながら取り戻せるのならとその手を掴んでしまった。
「もし理性を無くなれば?」
「神として暴れるんじゃないんすか? それこそ、あの蔓と一緒に」
そうなれば、また瑠美奈が鬼殻を殺すことになるだろう。
鬼殻を殺せるのは瑠美奈しかいないのだから……。
「っていうか、瑠美奈ちゃんは何をしてるんだ?」
劉子が連れて来たと言う瑠美奈が今どこで何をしているのか。
教会が氷に侵食されている状態でもしかすると瑠美奈は冷夏に負けてしまったかもしれないと本物の廬は思考を巡らせていた。
その事を口にしたら憐はきっと「お嬢が負けるわけがない」と否定するのが目に見えている。
「偽者のあんたと一緒にいるんじゃないんすかね」
憐はそう言って外の様子を見に行ってくると言って姿を消した。
暫くして状態を把握した本物の廬は、先程していた憐との会話が何処か変な気分だった。本来なら此処で話をしているのは偽物と呼ばれた廬の方なのではないだろうか。A型0号が此処にいて、瑠美奈と憐の三人で状況を改善させる為に思考を巡らせていたはずだ。
「たまには良いかと思うけど、出来れば平和な時が良いな」
なんてぼやきながら本物の廬は部屋を片付ける。金色の蔓がひしめく世界でこんな呑気なのは自分だけだろうと笑う。
そんな時、がたんと出入口の方から音がした。憐が戻って来たのか、それとも金色の蔓が、と警戒して振り返ればそこには、血塗れの鬼殻が立っていた。
扉に身体を預けて何とか此処までやって来たのだろう。
「鬼殻っ!」
急いで駆け寄り、今にも倒れそうだった鬼殻を受け止める。
家の中に引きずるように入れて扉を閉める。
呼吸が荒い鬼殻に何があったのか、どうしたのか尋ねる。
「瑠美奈ちゃんは? それに、0号はどうしたんだよ」
「瑠美奈……ああ、そうでしたね」
「そうでしたねって……おい!」
まるで瑠美奈を忘れていたような口調に本物の廬は戸惑う。
一体、あの礼拝堂で何があったのか尋ねようとするが鬼殻は「すいません、少し休ませてください」と本物の廬にもたれたまま目を閉ざした。
遅れて憐が飛び込んでくる。
「兄貴っ」
「憐……どうなってるんだ」
「んなの俺が知りたいっすよ!」
憐は鬼殻を劉子が眠るソファと向かい合わせになっているソファに横にする。
鬼殻が浴びている血は鬼殻自身のも混ざっていれば累の物と思われる血もある。
憐が甲斐甲斐しく鬼殻の世話をしている。目が覚めた時、血塗れのままだと鬼殻が発狂してしまうのを阻止する為だと言う。何とも難儀な事だと本物の廬は鬼殻を追いかけて来るかもしれない金色の蔓を警戒する。
「兄貴。ギリギリだったみたいっすね」
「分かるのか?」
「コレ」
鬼殻の左腕を見ると真っ黒になっていた。
冷夏によって異形となっていたものが本来の形に戻すことが出来たことは奇跡に近いだろう。それと同時に鬼殻は限界ギリギリまで鬼として立ち向かっていたことが窺える。
「戻らないのか」
「兄貴がこの事に気が付かないなんて事はないと思うんで……きっと身体を落ち着かせたら戻るっすよ」
力の使い過ぎで鬼から人へと戻れない。
それはいったいどう言う感覚なのか人間である廬には分からない。
「鬼殻が此処にいるって事は負けたって事なのか?」
「そんなこと……っ」
ない。とは言い切れない。鬼殻が此処まで単身で来る理由。そんなの手に負えなくなったからか、別の目的がある。こんな重大な時に休みたいなんて言う鬼殻に本物の廬は疑いの視線を向ける。
その視線は、何も鬼殻が本物か偽物なのかを見極めることじゃない。
鬼殻の目的が他にあるのではと勘繰っているのだ。
空にはまだ金色の蔓が蠢いている。
この状態で累に勝って来たなんて言えばすぐに嘘だと分かる。
幾ら考えても分かるわけがない。鬼殻が目を覚ますまで待つしかないのかと本物の廬は「丹下の様子を見て来る」と二階に上がった。
二階では丹下が目を覚ましていた。
「起きたのか」と尋ねれば、下の階が騒々しいから目が覚めたと言う。
「なにかあったのかい?」
「鬼殻が戻って来た」
今は眠っている事を伝えると「そう」と簡単な返事が来る。
「瑠美奈ちゃんが一緒じゃなかった。A型0号もだ」
「大方予想通りだけどね」
「……どう言う意味だ?」
丹下は上半身を起こして本物の廬を見る。
「負けたんだよ。鬼殻君」