第202話 ESCAPE
イム。それは瑠美奈と一緒にいた軟体動物だ。
鬼殻が生み出してしまった形而上の生物の名前。
そして、七つの宝玉を飲み込み一時的にでも人の姿を取り戻すことに成功した新生物。
「ボクの事を説明してくれるのは鬼殻だけなのに。あいつ、ボクを置いて廬を探しに行っちゃったんだよね。ボクの面倒を見ることが出来ないならこっちに連れて来なければ良いのに……もしボクが御代志にいたら、瑠美奈に引っ付いていただろうね」
イムがこの筥宮にいるのは予定違いだから、これから鬼殻がいるイタリアに向かうのだと言う。
一体イムが向かって何になると言うのか。この混沌の中心に向かえば死ぬ可能性が強まってしまう。
「お前たちとコネクションがある奴ならきっと信頼してくれるんだろうね。ボクだってお前たちと一緒にいたのに姿かたちが違うだけでこれだ。冗談じゃないね」
うんざりした顔をした後にイムは「だから」と言葉を切る。
「ボクを全て説明してくれる奴を見つけたよ」
イムは「ついて来て」と言って二人をある部屋に案内する。
案内されたのは、誰も近づかない。否鬼殻が創り出してしまった形而上の生物がいる立ち入り禁止の部屋。
イムは堅牢な扉をいとも容易く開きその中に入る。形而上の生物たちがもぞもぞと動いている中に一人の女性がいた。一体一体持ち上げては下ろして「君は、なるほど」「君と君は」と何やら形而上の生物に話をしている。
「棉葉、連れて来たよ。君の情報が必要なんだから余計な記録を入れないでよ」
イムはその女性にきつく言うと顔を上げる。
糸垂棉葉。死んだことになっているはずのA型の新生物だ。
しかし、そのことを知るものはこの場にはイムしかいない。
「まいったね~。イム君ともあろう人が私を必要とするとは光栄と思うべきか遺憾と思うべきか!」
あはははっと笑う愉快な女性だと青年は思う。
棉葉は青年に近づいて「ふむふむ」とわざとらしく口を開いた。
「なるほど、あー。君の事はよく知っている。君以上に君の事を知っているとも!」
「そうなんだ」
「うんっ。知りたい?」
「出来る事なら知りたいかな」
棉葉がぐいっと青年に顔を近づけるとにぃと笑った。
「全知全能唯我独尊この世の全てを知っているとても賢いお姉さんしかして、私は何を隠そう君が探している記憶の完治条件を知っているただ一人。糸垂棉葉その人さ!」
オーバーリアクションをする棉葉に若干引き気味に「そう、なんだ」とまた同じことを口にする。その反応が気に入ったのか棉葉は続けざまに言葉を発した。
「君は天宮司真弥。今年で26歳で幼少期、親との旅行の最中迷子になった。旅行先の駅員に親切にされて駅員の職業に憧れを抱いて御代志町の駅員として勤務している。自分の中で思う平和主義を貫く善人。そして、現在は青の宝玉の後遺症によって、精神崩壊直前であり記憶の一部を欠落してしまった。その解決方法が不思議と理解している。だが今の情勢ではそれは叶わないもどかしさに襲われている」
どうかな? と棉葉は青年――天宮司真弥に言う。
「た、確かに最近思い出したので……駅員さんの事は覚えてる。だけどどうしてそこまで知ってるんだ? 貴方は俺と」
「いやいや! 君と私は初対面さ。今の状態ではね」
意味を含みながら棉葉は「初めまして」と真弥に言った。
「ねえ、彼の事じゃなくてボクの事を保証しろと言ったんだけど」
イムが不機嫌な声色で言うと「おっと忘れてた」と本当に忘れていたかのようにイムを見て軽く謝罪する。
「彼女は少し特殊な新生物さ! そして、君たちの味方でもある。私個人の証明は廬君あたりがしてくれるだろう。私の名前を出したその瞬間に廬君は元気に「あいつは良いやつだ」と答えてくれるに違いない! そうじゃなくとも、私の口から伝えられるのは本物だと思ってくれたまえ!」
「結局、この場にいない人物が保証してくれるって言う訳ね」
純が言うと棉葉は興味深そうに近づいて言った。
「君とは正真正銘初めましてだね。うんうん、その方が私としてもその方が楽で実に良い! 君から信頼を得るのは極めて難しい。だからあえて君に疑心を与えようじゃないか! 栗原純。君は、後悔している。自身が身を置いている病院の患者を全て救えなかった事への後悔。なんて事はない、君にはかつて尊敬する女性がいた。その女性は、自分の血縁者であり、その女性を目標にしていた。しかしながら不慮の事故によって故人となった。その事を今も後悔し続けている。もっとも運命とはそう言うものさ。神様とやらは、好意的な人間を連れて行ってしまうからね! 悪人が長生きするのはそれが要因とも言える。もっとも鬼殻君に関しては地獄で鬼にも楯を付いて追い出された可能性があるけど、それとこれは別の話」
ある女性を失って自分を見失った。
「純君、君は目指す先を見失い自分を失った。よくある話だとも! 前向きにしている人間こそ闇を抱えている。だが君の闇と言うのは平民のそれだ。けれど私は同情してあげよう! なんて言っても人の絶望は十人十色千差万別、他人にとっては些細な事でもその人にとって重要な事だからね!」
同情をすると言いながら棉葉は喜々としている。
「意地が悪いと思う? これでも親切な方だぜ? なんて言っても君の本当を口にしていないんだからね。私の戯言なんて忘れてくれたまえよ」
「……はあ、良いわ。アナタの特異能力は、未来予知か何かなのかしら?」
「とんでもない! 私の特異能力は、ただ人をのぞき見するだけの下品なものさ。未来を予知なんて恐れ多いとも」
白々しい事を言う棉葉は「これだけは保証しよう」と言った。
「真弥君がイム君と移動したとしても死ぬ事は決してない。勿論、怪我の有無は多少あるかもしれないが命に関わるようなことはないと断言しよう。真弥君よりも君がするべきことは、君が担っている患者のメンタルケアだろうね。あと三時間後には二人の患者が精神を病んで自殺を選ぶ。それを止められなかったのかと君は自責の念を抱く」
「本当に嫌な女。糸識クンが戻って来たら叱ってもらわないとならないわ」
「それまでに私はここを立ち去っているとも。彼に会ってしまえば私は怒られてしまう。まあ! 今の私は初対面だ。会ったこともない相手に怯えるほど臆病じゃないさ!」
その人間関係を一目見るだけで理解してしまう。一年前の記憶を棉葉は持ち合わせていない。今は、真弥の情報が頭の中にそこに同伴していた男がいた。
それが糸識廬と言う男だという事だけが棉葉は知っている。その男の正確な情報は直接会ってみない事にはどうにもならない。
純はもう勝手にしろと新生物の相手に疲れたのか、棉葉の言っていた二人の患者を探す為なのか踵を返した。
彼が立ち去ったのを真弥は見届けると棉葉は「さて、本題に戻ろうか」と真弥に向き直る。
「今までの会話で思い出したことは全くないだろう。そして、私もそれを期待していたわけじゃない。君は本当に記憶を取り戻す為に脅威の中に行こうって言うのかい?」
「俺はその廬って人に会えばちゃんと思い出せるのかな?」
「それは私の口からネタ晴らしをしたら詰まらないと思わないかい? 私はネタバレは大歓迎だけどね! もっとも……どの道、君には彼に会って貰わなければならない。青の宝玉では君を完全に取り戻すことは不可能なのさ」
「……やっぱり」
イムが呟いた。
「可笑しいと思ったんだよ。ボクが持つ宝玉にソイツの気配が微かにしか感じない。廬が持って行ったのかい?」
「持って行った……と言うよりは、自分で避難したと言う方が正しいかも知れないね。誰しも安心できる場所に身を置きたいものさ。彼だってそれは同じこと」
「待ってくれ、どう言う意味かな?」
「君の心は、既に廬君の所にある。幽体離脱だね~。身体が置いて行かれたから君はその心に引き寄せられているってわけ! だから、否が応でも君は心を拾って来なければならないという事さ」
「ちょっと……よくわからないんだけど」
「今のお前は空っぽの状態だ。本来の中身を取り戻そうとしている。だけど、今のまま新しい記憶を注ぎ続ければ、本来の中身を入れることが出来なくなる。お前が完全に新しい自我を生み出す前に廬に会って、廬からお前の心を返してもらう事だよ」
真弥の心は空っぽだ。記憶も混濁している最悪な状態とも言えるが、彼の本来の性格が吉だったのか。自分の心の居場所を明確に把握している。そして、その持ち主が廬だと理解していた。
新しい自分を作り出すのも面白いだろう。しかし真弥はかつての自分を取り戻そうとしている。
「とりあえず、ボクが持っているお前を帰すよ」
そう言ってイムはその手から青い光を灯した。それは真弥の生きる力。
何のために生きているのか、何のために立ち上がっているのか。
「ありがとう」
真弥は何となくそう言う必要があると思い呟いた。そして、取り戻した。
生きる意味を自分が御代志町の駅員をして、駅員になりたかった理由を明確に思い出した。
「それはお前がお前たらしめる為の物だよ。生憎完全にお前を取り戻すにはやっぱり廬の所に行く必要がある。そうじゃないと今日までのお前を完全に取り戻すことは出来ない」
「もし、このままだったら?」
「そうだね。別に困らないと思うよ」
「困らない?」
「役立たずの政府がお前の記憶を確認したがっている。お前は何も知らないと言えば、政府は素直に引き下がるだろう。あいつらだって暇じゃないだろうしね。お前はこの一年の記憶を取り戻せない。別にそれで困る事もないよ。ボクもその方が恩を返さないで済むしね」
「それが本音かな」
真弥は苦笑する。
「俺は思い出すよ。親友の事を思い出したいし、どうして俺がこうなったのかも知りたい」
「それがたとえ、最悪な光景でも?」
「良いよ。難しい事は分からないけどさ、俺はやっぱり気になるんだよね」
「……そう」
イムは何となく詰まらそうな顔をして「それじゃあ行こうか」と言って地上を目指した。