第196話 ESCAPE
礼拝堂前にて。
聞こえて来る断末魔。繭から伸びる金色の蔓が殺戮を繰り返していた。
彼らの悲鳴は鬼殼の鬼としての血が疼いて仕方なかった。嘆き悲しむ光景は生きる事に貪欲である人間の美しい所だと認識している。抗っても死んでしまう可哀想な存在に鬼殻は興奮を抑えきれない。
だが、それ以前に論外がある。抑えきれない感情を抑えている矛盾が目の前にある。
繭の亀裂から出て来る金色の蔓が外周に伸び虐殺を繰り返す。それがどれだけ美しくなく、穢れ切った物なのか。鬼殻は理解している。
鬼殻が何度繭を破壊しようとしても亀裂から金色の蔓が現れる事もまた事実。
余り繭を傷つけても金色の蔓が外周を襲撃して成長してしまう。
(瑠美奈が動けたらこんな事にはなっていないのでしょうけど、無い物ねだりでしょうかね)
瑠美奈と鬼殻の二人で覚醒間近の累を再生不能まで追い詰めることが出来れば勝機はあったが流石にこの先まで見越しているわけもない。
冷夏の氷の所為で足元が覚束ない。少しでも足を滑らせて隙を見せたら串刺しに遭うのが目に見えていた。
(さて、余り長い時間遊ぶのはこちらの都合が悪い。早々に仕留めてしまいたいが……なかなか思うようにいかないものですね)
鬼殻は周囲を見る。右は崩壊しかけている礼拝堂。左は崩壊している教会。
教会側で廬が気絶している。今頃、記憶を消し去る為に奮闘しているだろう。
目が覚めた時、自分が何者なのかも覚えていない。
「……何もないと言うのはどう言う気分なのでしょうね」
鬼殻は脈絡もなく呟いた。廬は今、自分を消した。
糸識廬として過ごした数年と瑠美奈と出会って約一年半を過ごした人格は消える。
再び何もない状態になった。リセットされた状態で廬は何者になって、何をするのだろうか。興味深い反面、哀れだと鬼殻は自分が命じて置きながら廬に同情する。
記憶が無くなる前までしていた事を忘れた廬は一体、何を糧に生きていけば良いのか。
「それを今、堪能させてあげましょう」
そう言って金色の蔓が鬼殻を襲った。鬼殻を穿とうとする勢いで伸びる蔓。
即座に落ちている氷の残骸で歪な刃物を作り出して切り落とす。
(彼を殺そうにも繭を傷つければそこから鬱陶しい物が出て来る。では、どうする。このまま彼が覚醒しきってしまうのを待つか。いえ、それでは手間と被害が増えるだけ……)
鬼殻が幾ら考えても繭のまま累を殺すことは出来ないと解が出る。金色の蔓が襲い掛かるのを回避しながら思考する時間が惜しいと鬼殻は鬼として暴れる事を決めた。
「私は鬼です。鬼は正義ではない。ええ、貴方の理論の一つを肯定して差し上げましょう。私は鬼として美しくある。美しいものを喰らい、汚らわしいものを滅する。ああ、私の在り方は誰かに左右されるものではない。私が左右させる」
鬼殻は異形と化した左腕を一度振るって周囲に蠢く金色の蔓を追い払った。
「さあ、禍津日神たる私を殺す為にとっとと覚醒してください」
天を仰いで言った。
旧生物が死ぬ中、その悲鳴を糧に鬼殻は血を滾らせる。
「覚醒する時間くらいは与えて差し上げますよ。ですが、私もただ待ってあげるほど優しくはない」
左腕だけではなく、右腕も禍々しく変形する。鬼殻の特異能力が鬼殻を作り変える。鬼としての血を滾らせて完全な鬼となる事で累を殺す。
黒い両腕、人と形容するには不可能な怪物として鬼殻はそこにいる。
「アアなんて汚らわしい。これが私ですよ」
自分の姿を氷の鏡から見えた鬼殻は自分の醜い姿に絶望する。
「どれだけ美しい物を口にしたとしても、私の本懐を覆すことは出来ない。アア、ホントウに醜いですね。美しくない」
輝く者を食べ続ける、悲鳴を聞いて、生きる渇望を得る。
自分は美しく完璧であるのだと思い込み感じる事で後遺症を殺す。
噛み砕いて飲み込んでも、その美しさを自分の物には出来ない。
手に入れられない。手に入れようとすると壊れてしまう。
後遺症が鬼殻を蝕む。自身への劣等感。完璧ではない事への失望。
美しくないことへの絶望が鬼殻の心臓を締め付け殺そうとする。
「悪魔の子。鬼頭鬼殻。鬼の血を此処で絶やす。根絶やしにする」
鬼殻を殺した後はきっと凍り付いた瑠美奈を冷夏共々殺すつもりだろう。
動けない瑠美奈を殺すなんて容易だ。だからこそ、鬼殻は此処で死ぬわけにはいかない。
(さて、本当に久しぶりにこの姿になった。……ええ、構いませんよ。美しくないのなら、美しく見せるのが私と言うものだ)
本能が殺すことを求めている。奪う事を欲している。
A型である以上、制限が鬼殻を束縛しない。
暴走には暴走を。暴力には暴力を。殺しには殺しを。
怪物には怪物を。
繭の亀裂が大きくなり、光が放たれる。そこから現れる巨大な翼。
金色の蔓が胴体を絡めている。巨大な人。
下半身がない。生物と形容するのも難しい。ただ上半身が人と言うだけだ。
「小さき人間を殺し、私が手にする世界。新生物が頂点に君臨するときです。天理に従え!」
咆哮に近い叫びが耳を刺激する。
特異能力の暴走。累が今まで研究してきた新生物の在り方。
天使である累が神を騙り、神に成り代わろうとする冒涜。
金色の蔓が増え世界に広がる。旧生物を虐殺する為に世界を巡る。
此処で止めなければ世界は新生物だけが生き残る世界になるだろう。
旧生物は存在を失う。
「っ……貴方を……本当にアノ時殺しておけば良かった」
――慈悲など与えなければ良かった。
鬼殻を襲う金色の蔓を千切り距離を詰めて黒い腕を振り上げた。
巨大な累が鬼殻の攻撃を防ぐために咄嗟に右腕を前に出す。鋭利な爪が腕を裂く。
深い傷を与えることが出来たと思えば、瞬く間に再生していく。
新生物の超人的再生能力を侮っていた。どれだけ傷を負わせてもすぐに治ってしまう。普通の新生物が致命傷を負っても数時間休めばすぐに良くなるのだ。
新生物を敵に回すと面倒だと改めて理解する。
新生物は旧生物を怨んでいる。同じ存在のはずなのに迫害を続けた旧生物の末路だ。鬼殻もそれは同意しよう。もう少し何かあったのではないのかと追及する事も出来たが、鬼殻は何もしなかった。
自分が余計な事をして守るべき家族を危険に晒してしまう事を危惧したのだ。
もしも鬼殻に家族がいなければ、累のように孤児で、愛されずにいたら旧生物を忌み嫌っていたはずだ。
旧生物を累と共に滅ぼしていたかもしれない。今の醜い姿を晒さずに済んだかもしれない。
(所詮それは、たられば。となるのでしょうけど)
まだ自我ははっきりとしている。鬼殻は一人、がむしゃらに腕を振り上げた。
目の前にいる神モドキを神として罰する為に……。