第194話 ESCAPE
完璧に完全に、この世にそんなものは存在しないと言うのが鬼殻の持論だ。
だが、その持論に矛盾する生き方を鬼殻はしている。
鬼殻自身、完璧に美しい存在を探し求めている。食べてしまいたい程の素材を求める。食べて食べて、血肉を貪り愛する。一人ひとり忘れずにその顔と名前、性格までも記憶している。一度たりとも忘れたことはない。
自分を形成している者たちを忘れるわけがない。嫌われていようが、殺意を抱かれていようが、もうこの世にはいない。仮にいたとしても鬼殻の胃の中だ。
美しい物は追及する事で磨きがかかる。食べてはいけないモノを前にした時、鬼殻はそれを愛でようとする。寵愛の中で生き続ける。自分が神であるのなら神なりにごっこをしてやろうではないかと演じるのだ。
長いようで短い人生を謳歌する為に、愛する者たちを寵愛し続ける。
そして、今もまた嫌悪する者の前で愛する者が一人、その自我を失おうとしている。気に入らない。折角美しくなろうとしていたのに、それもこれも意味の分からない矛盾理論で世界を変えようとしている革命家気取りの天使の所為だと殺意を強める。
一つだけ嬉しい誤算だったのは、廬が鬼殻を信じてくれていた事だろう。
鬼殻を知る人間ならば「あの男を信用するなんて冗談だろ?」「鬼頭を信じるくらいなら、自殺した方が幸せだ」などと口を揃えて言われる。博愛者の妹にも一時は極限まで嫌われていたのだ。そう言われても無理はない。
廬は疑り深い癖に一度味方と認識してしまうと突き放すことが出来ない。
親しくする。言葉を交わす。感情をぶつけ合う。互いを知る。
それだけで廬は受け入れる。よくある話で誰にでもある事だが、新生物にしては珍しい。親しくすれば疑われ、言葉を交わせば騙される。感情をぶつけ合う頃には殺意をぶつけ合っている。互いを知った頃には、どちらかが死んでいる。なんてことも珍しくはない。
ならばどうして鬼殻は廬に「信じて欲しい」などと言ったのか。
心の底から廬が「糸識廬」を忘れたとしても取り戻す方法を持ち合わせているから信じて欲しいと言った感情。
後遺症を克服する方法などあるわけがない。口から出任せ。
考えればすぐに分かった事だが、廬はそれでも鬼殻を信じたのだ。
そして、その手を自身の胸に当てて特異能力を使用した。
人形のようにバタリと地面に倒れ伏す廬。これで累の特異能力は意味が無くなる。
そして、糸識廬もたった一人本物だけとなった。
「素直な子は本当に素敵だと思いませんか?」
「……またもや」
「おや?」
「またもや僕の邪魔をしましたね。悪魔の子」
怒りと悲しみが宿った瞳。感情の浮き沈みが激しいようだと鬼殻は忙しない累に同情する。その原因が自分でありながらその気持ちを理解出来ると同調しようとする。それがまた累の感情を逆撫でする。
「ふっ……あっはははっ!」
優雅に笑う事も忘れて豪快に笑う鬼殻。
その表情は無邪気な子供のようだった。
「ああ、本当に素敵だと思いませんか? いえ、素敵でしょう? 廬君は私を信じて自らを忘れてくれた。貴方にはそうしてくれる方がいるのですか? 無条件に己を信頼して身を挺してくれる者が、特異能力を使わずに付き従ってくれる者が」
冷夏もネロもレギラスもピケットもルートも他の信仰者たちも無条件で累に付き従っているわけじゃないだろう。
冷夏は兄が戻って来る事を信じてついて来ている。ネロも冷夏の傍にいたいが為、レギラスも利益が生じると思っているから、ピケットは長生きできる方を選ぶ、ルートは自分の後遺症を消し去る為の研究がしたい。
世界の事なんて誰一人として気にしていない。
誰もが累を信仰していない。累の特異能力で、錯覚させているに過ぎないのだ。
それに比べて鬼殻と廬の関係は完璧だ。
友だちではないし、かつては敵対していた相手。
たった一人の少女の為に意見のぶつかり合いをした。
大切にしている女の子の兄であり、唯一の血縁者が気にかけている男。
「打算があっての事だとしても、これほど純粋に記憶を消し飛ばしてくれる人は早々いないでしょう? 本当に見ていて飽きない。彼と言う存在があるからこそ、我が妹は生きられる。もっとも今は氷の中ですが」
冷夏と共に閉じ込められている氷を一瞥する。
「貴方の計画など九割がた破綻した状態で始まっている。全て他人任せであり自らの手足で赴き見聞きしてない」
「貴方は見聞きしてきたと」
「ええ、見聞は広めたつもりですよ。お陰で素敵な出会いも幾つかありました。憎たらしいほどに嫌えるほどの相手を見つける事も出来ましたがね」
素敵な出会いもあれば、一目見るだけで殺したくなる相手も現れる。
人生何があるか分からない。それがまた面白いのだと鬼殻は説く。
「さて、これで私は自由の身です」
言うと鬼殻は一度目を閉ざして呼吸をする。冷たい風が喉を通る。
肺を冷やして白い息が口から出る。
鬼殻が本来の姿になる。一対の角が額の左右に生えエメラルドグリーンだった瞳は朱殷色に染まる。
「人間に化けて、人間に成りすます悪魔の子。正体を現したとて私は容赦しない」
「容赦? とんでもない。本気でかかってきなさい。天使風情に私を殺すことが出来るのか、是非見せてください」
天使の翼が羽ばたく。一旦距離を取って状態を立て直さなければと思っていた矢先、廬が持っていた槍を鬼殻は即座に掴み累に投げつけた。
途轍もない勢いで飛んでくる槍は累の右翼を巻き込んだ。
「ぐッ!?」
バランスを崩して累は再び地上に落とされる。飛ぶことが出来なくなった累は背中に感じる激痛に顔を顰める。
「どうしましたか? 天使は飛ぶことしか出来ないと言うわけではないでしょう?」
文字通り悪魔のような笑みを浮かべる鬼殻。
「神よ。我を御救いください」
言うと槍にもがれた右翼が黒い翼へとなり生え変わる。白と黒の翼。
「堕天使に相応しい見た目をしていますね。天界に捨てられたのですか? それとも悪魔に騙されて堕とされたのですか?」
腕を組んで可哀想にと同情する鬼殻。
正真正銘の鬼である鬼殻は、本性を晒した事によって手加減は出来ない。
艶やかな翼で攻撃したとしてもすぐに避けて、返り討ちに出来てしまう自信が鬼殻には合った。
それと同時に累もただ理不尽に虐げられるわけがない。
白と黒の翼は累を隠してまるで繭のようになる。
「有りがちな手を使いますね。強制的に覚醒しようと言うのですか?」
特異能力の覚醒。佐那のように自然に特異能力が開花する者もいれば強引に今以上の力を手に入れようとする者もいる。
だからこそ、B型はそれを封じられていた。反乱を防ぐ為にだ。それでも尚、覚醒しなくとも脅威である事に変わりはない。
そして、その脅威がさらに上限を超える事を覚醒と言う。
累のしようとしている事は、強引に自身の力を引き上げる行為だ。
それだけの力を隠し持っていた。
「目には目を、悪魔には悪魔を」
「自ら悪魔になってまで私を殺したいのですか。随分と愛されていますね」
くふふっと笑う鬼殻が気に入らないのか、金色に輝く蔓が鬼殻を攻撃した。その勢いは地面を抉るほどの威力を有している。回避していなければ、鬼殻の身体は真っ二つに裂けていただろうと若干冷や汗を流した。鬼化状態で身体能力が著しく向上していたとしても、覚醒最中の新生物を挑発するのは褒められた行為ではなかった。
「良いですね。嫌いではないですよ。誰かを仕留めようとするために自らを省みない行為は満点です」
金色の蔓がゆらゆらをこちらの様子を窺っている。
下手に動けばその隙を突かれて仕留められてしまう。
繭は膨れ上がり人の大きさを遥かに超えていた。
それを人だとか、天使だとか、そう言った良い意味で形容するには流石に無理があった。
「貴方が神を自称するなら、神の御身を借りよう」
「随分と罪深いことを。神を騙るのは貴方の方でしょう」
大きさを増していく教会を破壊せんばかりに成長を続ける繭は、冷夏の氷をいとも容易く砕いた。
氷柱を簡単に破壊して成長を続ける繭は礼拝堂の第一屋根に到達すると成長を止める。