第193話 ESCAPE
現在。
氷は未だに成長を続けている。結晶の塔が築かれる。誰も逃がさない。寒さに凍死するか氷柱で串刺しに遭うのを待つのみだった。
だが、鬼殻も廬も素直に死を待っているわけもなく抵抗を続けた。
槍を持ち直して鬼殻は累を見る。
「貴方を始末するだけこれだけの対価を払う事になるとは。見てください。我が妹が氷の中です。早く出さなければ凍傷で傷が残ってしまう。レディを傷物にしたくはないでしょう?」
「貴方が不浄で、彼女が不浄じゃないと? 勘違いしないで頂きたい。鬼はみな一様に不浄です」
「可哀想に……。彼女ほどの博愛者はいないと思いますが貴方の目はやはり腐っている。その目をくり抜き何が見えているのか確かめたいほどですよ」
物騒な事を言いながら鬼殻は槍を累に振り下ろした。
回避されることを見越して石突を累にぶつけた。
「っ……悪魔が物理的に攻撃とは」
「私は意外と武闘派ですよ。武術ほど奥が深いものはないですからね。それに長物の方が近づかないで仕留められて好意的です。ですが、確かに私には似合わないですね。廬君にあげます」
そう言って廬に槍を投げ渡すと慌てて掴む。槍の使い方なんて分からない為「渡すな!」と文句を言うが鬼殻は近くの氷の結晶を拾い上げてナイフとして作り変えた。
「廬君、怒りませんからチャンスがあれば彼を殺してください」
「……お前の獲物だろ」
「ええ。ですが、私の獲物以前に生きていて欲しくないので」
心臓を一突きでもしたら身動きは出来なくなるだろうと助言を与えながら鬼殻は地面を蹴り左腕を振り下ろした。鬼のように荒々しい。普段の鬼殻からは窺えないほどの獰猛さがあった。
氷のナイフが累の首を狙って振るわれる。避けては狙って避けては狙われて。
終わらない堂々巡りを見せられる。
廬では累に一矢報いる事は出来ない。
「まったく、貴方に期待した私が馬鹿でしたね」
左腕を振るいながら鬼殻は廬を一瞥して言った。
累の背後を見せても廬はその手の槍を振るう事はなかった。
「やりたくても出来ないんだ」
その言葉に鬼殻は累を見て「なにをしたのですか」と尋ねる。
「なにも? 僕はただ彼の為に助言を与えただけですよ。『私に従え』なんて一言も言っていませんとも」
「白々しい。そのまま言ったのでしょう。何が天使だ、反吐が出る」
廬が記憶の混濁中に何かを囁いたのだろう。それが何であれ、廬は累を攻撃できない。武器を与えたのは寧ろこちらが危険にしただけなのではと鬼殻は廬を凝視する。だが他の盲信者と違って正常な判断は出来ているようだ。
鬼殻との理不尽な会話が成立している。このまま放置して良い事にはならない。
「では、少し手伝ってもらいましょうか。糸識廬さん、悪魔の子を倒してしまいましょう」
「何を言って……ッ」
そんな事をするわけがない言おうとした廬の身体は鬼殻から渡された槍を鬼殻に向けていた。
「意思が弱いですね。廬君」
全くと鬼殻は額に手を添えて首を振った。
「どちらが良いのでしょうね。言葉で欺瞞を植え付けられるのと、一切の違和感を抱かずに記憶を書き換えられてしまうのは……似た者同士、仲良く殺して差し上げましょうか」
「殺すな!」
鬼殻の冗談にならない言葉に廬は突っ込む。
(困りましたね。あの男が廬君を肉壁にでもしてしまえば、刺し違えてしまうかもしれない)
「見た目を作り変えてしまう。記憶を書き換えてしまう。常識を変えてしまう。似ていると思いませんか?」
創造、複写、破壊。
それらが似ているなど誰も言わないだろう。
しかし同時に感覚が狂っている者は、似ていると思う。
「作り上げて形を生み出す。複写して同じものを生み出す。破壊して崩壊した物を生み出す。その言い分ならば、誰にでも当てはまるでしょうに」
何を馬鹿な理論だと呆れてる鬼殻に「気が付きませんか?」と累は続けた。
「選ばれた者たちが此処にいるんです。世界を作り変える事が叶う。不浄に満ちた世界を作り変え清浄な世界を生み出すことこそが神のお告げ。天命を受けた者たちにだけなし得ること」
「悪魔の子と罵っておきながら今度は協力しろだなんて恩着せがましいと言うか、図々しいと言うか。意思を貫かない人だ」
神である鬼殻と全ての情報を思うがままに書き換える事が出来る廬がいれば、世界を操る事がどれ程容易なことか。考えるまでもない。
「全く美しくない」
鬼殻の美意識に反する事を何度もする累にうんざりだと左腕を振るって氷を砕き周囲を煙で一杯にする。
身体が言う事を聞かない廬を回収して鬼殻は小さな声で言った。
「複写しなさい」
「っ……どうやって、内容は」
「それを考えるのは得意でしょう」
鬼殻が近くにいる事で殺す絶好の機会だと思ったのか廬の言う事を聞かない身体は、槍で鬼殻を仕留めようと向けられたがそれを片手で押さえ付けられ微動だにしなかった。その間に廬に顔を近づけて鬼殻は言った。
「何だって構いませんよ。私の考察が間違いでなければ、貴方はあの天使風情よりも優れている。特異能力の上書きが貴方にはできるはずだ」
累の特異能力を上書きできる。
それは誰にでも出来ることじゃない。廬だけがそれを実現できる。
何故なら、廬は自分に特異能力を使う事で、それ以前の記憶が消失する。
決して思い出すことはない。記憶がなければ、累の力は意味をなさない。
「全部忘れたら、俺は」
「その時は私が貴方を殴ってでも思い出させます。私を信じてください」
「無駄ですよ。糸識廬さんの後遺症だけじゃない。誰の後遺症も克服は出来ない。同じ新生物であるなら貴方だってわかっているでしょう」
累は鬼殻が廬に命じる事を察して言う。
鬼殻は黙っていて欲しいと一瞥をする。
「貴方の策略も忘れてくれたら御の字なので」
累は是が非でも廬を手に入れようとするだろう。既に累の術中に嵌っている状態で鬼殻が死ねば後は好きなように作り替えることが出来る。
そうなる前に鬼殻は廬に全てを忘れる事を命じる。
また廬は自分が何者なのか考える羽目になる。自分の存在をやっと知ることが出来たと言うのにまた全てを忘れるなんてしたくなかった。
今もかつての記憶は完全には思い出せていないと言うのに、また忘れてしまう。
「っ……鬼殻、俺はお前を信じて良いんだな」
「ええ。約束は守りますよ。貴方の執念は気に入っていますからね」
廬は抵抗する身体を無理やり動かす。槍を握る手が強くなり痛みを感じる。
累は廬がしようとしている事に気が付き表情を変えた。つり上がった瞼が開かれる。
廬は槍の持っていない左手を自身の胸に当てる。
忘れてしまっても、もしかしたら鬼殻がどうにかするだろう。
仮にどうにかしなくても瑠美奈がきっと鬼殻を叱り無理やり動かしてくれるに違いない。
使い慣れない力に廬は気持ちを落ち着かせる。
(廬、すまない。少しだけ約束を破る)
廬は自分を忘れる。そして、もしかしたら、もう思い出せないかもしれない。そう思うと少しだけ弱気になった。
「いますぐやめなさッ」
累の言葉に廬の手が止まりそうになる。力が内側に封じ込められる。
「邪魔なんて無粋ですよ。男の覚悟を無下にしないでください」
「悪魔っ。悪魔の囁きに耳を傾けた者は破滅する」
鬼殻がナイフを振り翳して累の言葉を遮り力を無効化する。
気に入らないと累は鬼殻を睨みつけた。
何も覚えていない廬に特異能力が使えるわけがない。今までもまともに使えなかったのだ。
最近になって自分の存在に気が付いて使えるようになったと言うのにまた一からやり直しなんて冗談じゃないと累は何としても廬のしようとしている事を阻止したかった。
タイミングを逃してしまえば、また未登録の新生物を探し出して、組織を立て直す必要がある。その間に研究所の連中には廬をまた本来の形にしてもらう。
大方そんなくだらない事を考えているのだろうと鬼殻は累の思想など手に取るように理解出来た。
「思考を停止させた者が敗北する。それがこの世の理ですよ。天使さん?」