第191話 ESCAPE
それは、本物の廬が礼拝堂を出て行ったあとの事。
礼拝堂には鬼殻と累が残されて数回の会話を交わした後に行われた殺し合い。
「頑なに腕を隠すのはなぜですか?」
鬼殻がイタリアに来てからずっと外套を羽織っているのは何故なのか累は尋ねる。
「貴方のペットが粗相をしましてね。人に見せられるような美しさがないのですよ」
「粗相? あの子たちが粗相なんてするわけがない。つまり、あの子たちは良い事をしたのでしょうね」
「……まったく相変わらず私の言葉と正反対を口にしますね貴方」
鬼殻が「良い」と言えば累は「悪い」と言う。
意見が一致する事は絶対にないと言いたげに累は絶えまない笑みを浮かべるのだった。
それは累が意地悪をしているわけではなく本当にそう思っているのだからたちが悪い。互いに相容れない。だから存在を消そうとする。
「意外だったのは、妹を犠牲に厄災を止めようとしていない事でしょうか」
累が言うと「それは違いますね」と今後は鬼殼が否定した。
「私は紛れもなく瑠美奈を犠牲にしようとしていましたよ。ですが、彼女の周囲には彼女を守る騎士が多く手に負えないと判断したのです。私としても、瑠美奈を犠牲にしないで厄災が停止するのならなんだって構わなかったのですよ。再度厄災が起こるのを待っていたのですが、生憎とそうもいきませんでしたね」
イムが宝玉を食べた所為で厄災は時空の彼方と言える。
今頃、何処かで厄災が起こっているかもしれないが、そこまで面倒は見切れない。
「これでも新生物の為と思って我が妹を犠牲にしようとしたのですが、誰も理解はしてくださいませんでしたね」
やれやれ本当に困ったと言いたげに顔を顰めながら鬼殻は額に手を添えて首を横に振った。
「貴方はどうですか? 新生教会なるものを立ち上げて同志を集って、気分はどうですか?」
「まさか、私が優越感や高揚感の為に組織していると思っているのですか?」
ぽかんと口を開いて累は惚ける。
「世界の為と嘯く貴方と違って、僕たちは自分たちの為に生きようとしているのですよ? 神もそれをお許しになってくださる」
「貴方の神など取るに足らない存在ですよ」
「貴方が神と言う方が取るに足らないと思いますが?」
「神の言う事は絶対だと言うのに私の言う事は従わないなんて、嘆かわしいと思いますが?」
鬼殻は正真正銘の神だ。禍津日神である鬼殻を殺す為にその手を振るった。
刃のように振るわれた手は鬼殻の頬を傷つけた。
「相変わらず敵視した者を構わず八つ裂きにするのですか?」
「異教徒だけですよ。愛する者たち、神に愛されている者は傷を負うことはない。貴方は違うようですがね。その穢れた存在を排除して清らかな存在にして差し上げますよ」
「やめてください。私の美学に反します」
鬼殻は左腕を庇うように累の攻撃を回避する。
鬼殻は累を確実に仕留めようと禍津日神の力を余すことなく使う為に右手に力を溜める。
礼拝堂に並べられていた椅子が粉砕する。明確に神の力を以て累を仕留めようとしていたはずだが、累も明確に避ける。矛盾が空間を歪ませて床を喰らう。
鬼殻の右手に宿る神の力。累はそれでもまだ鬼殻は神などではないと否定する。
空間を歪ませて小規模な厄災を生み出す。世界のエネルギーを借りて鬼殻は累を虚空に落とそうとするが累は難なく生き延びる。
「その腕に意味がありそうですね」
外套の内に隠された左腕。冷夏が齎した傷。
鬼殻もまさか累を片腕で仕留められるとは思っていないが片腕で片を付けなければならないと奮い立たせながら力を操る。
そんな鬼殻の思惑も読まれてしまい累は左腕を攻める。
床を蹴って距離を詰めその外套をはぎ取ろうと手を伸ばす。その瞬間に空間が歪み腕を奪われるのを感じ取り手を引っ込める。
「完全防備とはいかないですね。ですが、貴方に触れられると穢れてしまう」
「元から穢れている存在が何を仰っているのですか?」
鬼殻の美意識に累は該当されない。浄化されることのない男に触れられた日にはどれ程見せたくなくても切り落とす所存だ。
鬼殻は足を掬われた。後ろに倒れ込む鬼殻に累は外套を引いた。脆くなっていた所為で簡単に破りはぎ取られる。
そこから見えるのは、黒々と禍々しい肉を繋ぎ合わせただけのグロテスクな腕だった。
「好き者ですね。男の身ぐるみを剥ごうとするなんて」
座り込む鬼殻を見下ろす累。その手に驚愕している中、そんな事を言われて我に返る。
「神だと仰っていたわりには、自らの身体を創造する事が出来ない。やはり神は人間の目に見えてはならない尊き者。貴方のようにまがい物は神と名乗る資格はないと思いますが」
「神に資格なんて必要ないでしょう。勝手に神と崇めるのですから」
「名乗っているのは貴方でしょうに図々しい」
「ええ、だからこそ、この腕は拍が付くと思いませんか?」
腕と形容するには無理がある形。だがあえて一言で表すならば、まるで……。
「その腕だけならば怪物のようで、素敵じゃないですか。神を名乗らず神に敵対する獣と名乗ればよろしいかと……そうですね、さしずめ魔王なんてどうでしょうか」
地を歩く魔の王。天から堕ちた神、邪神。
元から誰も鬼殻を歓迎しない。鬼の名前を持つ男。空っぽで中身なんてない。親がどんな気持ちでその名をつけたのかわからない。鬼と言う単語を誇張してまでつけた。鬼殼という名前。
忌み嫌われた存在を鬼殻自身は気に入っている。
心の弱い若者ならば、気を狂わせていたはずだが、生憎半狂乱になるほど若くもない。まがい物の神父に何を言われてもお構いなしだ。
「ならば、魔王らしく神の眷属を堕としましょう。地に落ちた蝉のように息絶えてくださいね」
禍々しい腕を振り上げると空間が斬られる。
鬼殻が右手でやっていたのとは違い威力が大きく累も身体を持っていかれそうになるのを堪えるが咄嗟に特異能力を遣ってしまった。
斬り開かれた穴から流れる風よりも強い風が礼拝堂に吹き荒れる。
「正体を現しましたね」
鬼殻が楽し気に言う。視界の先で見えたのは、荒れ果てた礼拝堂には不釣り合いな存在。
神を語り、無条件で神を信仰崇拝する新生物など考えるまでもない事だ。
不浄を嫌悪し、浄化を求める。
「天から堕ちた存在と穢れしかない人の間で生まれてしまった罪の子。赦しを得る為に毎日教会に足を運んでは自身の罪を告白する。それが不浄でなく何と言うのでしょうね」
鬼殻が楽しそうに言った。
「……やはり、貴方と対話をすると必ずこの姿になってしまう。どうしていつも相容れないのでしょうね。同じ存在、似た境遇、私と貴方とでは何が違うのでしょうね」
「哲学を語る暇なんて与えませんよ。貴方と似ているなど一度たりとも思ったことはないのですから。私は鬼であり、貴方は鬼ではないのですから」
天理累。
彼は普通の新生物ではない。新生物であることに間違はないが、新生物として生まれる条件が複雑だった。
累は、天使だ。
それは言葉の比喩などではなく事実だ。それを知る者は鬼殻以外存在しない。
鬼殻が累を、累が鬼殻を、互いに視線を交じり合わせた時、互いに嫌悪した。
この男は、存在してはいけない。この男とは、決して分かり合えないのだと……。
天使の血を流す累と鬼の血を流す鬼殻では同じ空間で生きる事は出来ない。
会う度殺し合い、言葉を紡ぐ度否定し合う。此処まで来ると仲良しと言われてしまうが彼らは一様に本心で互いに憎悪している。
劉子とは違う白い滑らかな翼。一点の穢れのない翼。
「貴方の敬愛する神の前に本性を出してしまった感想は?」
何度も鬼殻は神なんかではないと言っても鬼殻は神である事実は変わらない。