第187話 ESCAPE
「危ないです!」
場違いな声が聞こえた。身体が後ろに引っ張られると同時に丹下がいた場所が爆発した。
尻もちをついた丹下は驚きながら顔を上げると黒い翼を羽ばたかせた劉子がいた。
「どうして。君は研究所にいたはず」
佐那の護衛の為に残っていたはずの劉子がいる事に丹下は驚きを隠せない。
そんな事、今は重要ではないと劉子の視線の先には、頭から血を流したルートが鬼の形相をしていた。
「わぉ」
「新生物を馬鹿にするなです。相手はB型と違うです」
制御出来ない個体であることを忘れてはいけない。
常に箍が外れている状態だ。暴走してしまえば手が付けられない。
劉子はその危機を救った。爆発の煙の先にはレギラスがいた。
ただの爆発に死ぬわけがないかと脱力する。
「助けてくれてありがとう、劉子ちゃん」
「貴方は新生物を甘く見てるです。今まで相手にしていたのはB型です」
「わかってるよ。君の説教は怖いから気を付ける」
立ち上がり砂埃を払う。
「それで? 君はどうしているのかな?」
「特急便です」
答えになっていないと丹下は呆れる。だが劉子からしたらそれが一番近い言葉なのだろう。
「なら丁度良かった。彼をどうにかしてくれないかな? あのワンちゃんを殺すのに邪魔なんだ」
「です」
「頼んだよ。可愛い吸血鬼ちゃん」
言うと劉子は地面を蹴り暴走しているルートに近づいて丹下とレギラスから離した。
「邪魔が入っちゃった……仕切り直しだよ。狼君」
レギラスは「悪運だけはあるか」と呟いた。
「さて、ほぼ無傷の君と、傷はあっても五体満足の俺。果たしてどちらが強いのか。此処で白黒はっきり決めようじゃない。勿論、黒だった場合、待っているのは死のみ、だけどね? それとも黒を制してみる?」
「そうだな。そうしよう」
心が決まったのか毛皮のコートを脱ぎ捨ててレギラスは吠えた。
耳を劈くような遠吠え。丹下も流石に耳を塞いだ。
まるで鳴き声が身体に響いているように傷口が痛み始める。
遠吠えが静まるとレギラスが立っていた場所には黒い毛の人狼が唸り声を上げていた。
「それが君の本性ってことか」
「数年しか生きていないガキが俺様を殺せると思うな」
「ガキ、余り舐めない方が良いよ。……なんて劉子ちゃんに怒られちゃうかな」
先ほどA型を舐めるなと言われて叱られたばかりだと言うのに挑発するのは丹下の悪癖だろうと自覚する。
(けど、仕方ないよ。俺はこういう男だ)
普通に生きていたが普通に飽きて生き甲斐を求めて死に場所を探して今の現代社会にはあり得ない価値観を持ってしまった以上、丹下は此処に立つためにだけに生きて来たようなものだ。
最強の新生物を殺す。それが丹下の目標だ。
その後はきっと詰まらない日常が待っているだろう。
殺してしまうのが惜しいと思うがこれも仕事だ。仕方ない。
その手にあるアンチシンギュラリティ改が壊れていないか確認する。
まだ動く、残弾もある。本性を晒してくれたのなら下手な小細工は必要ない。
人狼化したレギラスは先ほどの動きなど比ではないほど目では追えなかった。
だが、確かに地面が少しだけ抉れている。それを追いかけることは出来た。
丹下は何とか後退しながら足元を撃ち込む。残像が見えてしまう程に速い人狼に丹下は冷や汗を流しながら、心は高鳴っていた。
しくじったら死ぬ。そんな高揚感を丹下は感じている。
何もない場所にナイフを振り下ろすと振り下ろしていない場所からレギラスは現れる。その隙を狙って撃つ。反射神経の勝負。
人狼の速さを越えることは出来ない。ならば……。
(出し抜けばいい)
一撃でも当たれば勝機ある。
一撃でも受ければ敗北がある。
「あはっ! 本当に最高だよ! レギラス! 最高の殺し合いだ!」
命綱を付けないで綱渡りをするよりも、安物の紐で飛び降りるバンジージャンプよりも、こうして目に見えた他者に与えられる害によって奪われる命。
簡単には渡してやるものかと熱くなる。
鋭い爪をナイフで受け止めて銃口を向ける。
艶のある毛並みを穢す背徳感。傷つける罪悪感に丹下は優越感を抱く。
銃声と金属音が交差し響く。蹴られて倒れて起き上がって撃ち込んで斬り込む。体力が消耗する。此処まで来ると消耗戦だ。
血を流し過ぎた所為で視界が歪む。
丹下が避けると立っていた地面は抉れる。
(避けた瞬間、上半身を起き上がらせるために隙が出来る)
レギラスは、丹下を確実に仕留める為に力いっぱい腕を振り下ろしている。その為、地面に爪が突き刺さり引き抜くのに数秒を有する。その僅かな時間を丹下は狙う。
爪が抜き辛い場所をレギラスの攻撃を回避しながら探すと教会の壁が目に入った。
既に半壊している為、中庭が見える。
その先にあるものを見つけてにやりと笑った。
何とかそちらに誘導する為にがむしゃらに逃げているふりをする。
気を緩めてはいけない。中庭に向かう前に数秒後には死んでいるかもしれない。
考え事もままならないほどに丹下は追い詰められているのは事実だった。
足が縺れても、前に突き出すしかない。奇跡は何度もやってこない。
奇跡を望むよりも希望を望む。一縷の可能性を丹下は賭けている。
吠えるレギラス。瓦礫を持ち上げて丹下に放り投げて回避した先で待ち構える。襲い掛かる腕に銃口を向けて撃つが皮膚が堅いのか、毛が堅いのかどちらにしても上手く当たらないが退路は出来る。同じことの繰り返し。
「うわっ!?」
瓦礫が飛んでくるとその瓦礫と一緒に中庭に飛ばされる。
すると中庭の中央に生えている大樹に身体を叩きつけられる。
口いっぱいに広がる血が耐えきれなくなり吐き出される。
「げほっ! ……はあ、最悪」
両足が瓦礫で潰れた。これではもう逃げられない。
折角中庭まで来たと言うのに、こんな呆気ないものなのかと自分自身に失望する丹下。
地を鳴らしながらレギラスは近づいて来る。
足が潰れてしまったお陰でもう逃げられないと理解したのだろう。
「いい様だ」
「本当だね。俺もこんなはずじゃなかったんだけど神様の所為だ」
仮にもこっちは世界を救おうとしているのにこんな仕打ちはあんまりじゃないかと自嘲する。
(まあ信じていない癖に神なんて言ったって、助けてくれるのは、優しい劉子ちゃんくらいかな)
「ほら、俺はもう文字通り手も足も出ないんだ。一思いにザクっとやっちゃいなよ。これの残弾もあと一発みたいだし」
もう諦めたと手を地に付けて楽な体勢になる。
もっとも足は潰れている為、痛みは延々と感じる。
「ただ殺すじゃあ詰まらない。最後にお前にチャンスをくれてやる」
「チャンス?」
「その一発で俺を仕留めてみろ。勿論、俺は避けるがな」
「この一発が最後の希望だって? 俺の命も軽く扱われたものだね」
銃の扱いは人並みであり肉弾戦が得意なだけの丹下が超人的速さで回避する人狼を撃ち抜くなんて祭りの射的も無理だと言うのになんて高難易度を提示してくるのか。
けれど、それもまた命のやり取りの一つだ。レギラスだってアンチシンギュラリティをまともに受けて力を発揮できるわけがない。人狼化している今、銀弾が上手い感じに心臓に入れば命は終わるだろう。
「……当たれば良いんでしょう」
「ああ、避けはする」
「何度も言わないでもわかってるよ」
そこまで馬鹿ではないと丹下は苦笑する。
「それじゃあ」と銃口をレギラスに向ける。
「神に祈りなよ」
そう言って真っ直ぐ狙いを定めて引き金を引いた。
だが、レギラスは素直に銀弾を受けてはくれなかった。
アンチシンギュラリティの光と共に銀弾がレギラスからすり抜けて背後に飛んで行ってしまう。
「残念だったな。お前の負けだ」
「そうかい? 勝負は最後まで分からないものだよ」
レギラスに向かって撃った銀弾は何処かに行ってしまった。もうアンチシンギュラリティ改は意味をなさないと言うのに丹下は何処か自信満々で自分の勝利を主張する。
「ぶはっ! ガキが頭に血が上り過ぎて正しい判断も付かなくなったか!」
げらげら笑うレギラスに丹下は「最後に笑えて良かったね」と呟いた。
大口を開けて空を見上げたその時、レギラスの口にソレは突き刺さり貫いた。
「十字架は君を天国には連れて行ってくれないのかな?」
教会には無くてはならない物。建造物の上に目印としてあるそれを丹下は撃ち抜いた。ボロボロの教会に置いてその象徴を撃ち落とすのは容易だった。
十字架に張り付けにされたかのように倒れる事を許さない。
見るも無残な姿となったレギラス。
「……はあ、楽しかった」
そう言って丹下は目を閉ざした。