第182話 ESCAPE
佐那は丹下の頬を打った。パチンっと渇いた音が響いて丹下は惚けていた。
どうして打たれたのか分かっていない様子だ。
自身が生きる意味を見出す為に世界戦争を起こすなんてテロリストの域だ。許されるわけがない。
佐那は内心怯えている。仮にも経歴を積んだ研究所の所長を打って何が待っているのか。だがもう引き返せない。否、引き返さないと拳を握った。
「此処は、あたしの研究所です。貴方の勝手は許しません」
「……」
「世界戦争を止めます。これは、残された御代志研究所と筥宮研究所の絶対的意思です。入野丹下さん、貴方があたしの研究所の保護下にある限り勝手な事は今後一切許しません。大人しくあたしに従いなさい」
宣言した後、佐那は部屋を出て廊下にいる職員に今動ける新生物をホールに呼んできて欲しいと頼む。
開け放たれた会議室の扉に身体を預けて丹下は言った。
「じゃあ、君は旧生物と新生物の架け橋にでもなろうって言うのかな? 共存する為に頑張ろうって?」
「そんな大それたことはしません。ただあたしは些細な幸せが欲しいだけです。争いが無ければそれに越したことはない。……誰かたった一人の我儘で起こす争いは絶対に止めます」
丹下を睨みつけたあと佐那はホールに足を向けた。
集められた新生物は一体どうしたのかと落ち着きがない。
佐那は頭の中を整理する。此処まで来たら止められない。止まってはいけないのだと意を決した。
「集まってくれてありがとう。実は、三日ほど前に糸識さんが本部に行ったことはもう周知ですよね。その当日、本部が新生教会という反政府組織に襲撃を受けました。糸識さんは生存確認が出来ていませんが、入野さんの予想だと糸識さんは新生教会に誘拐された可能性があるそうです」
「あの男が裏切り者だから、仲間が助けに来たんだろ」
誰かが言った。そう、普通はそう言う解釈で間違っていない。
「聞いてください。糸識さんは何も知らなかった。糸識さんは確かに新生物です。彼の後遺症は自身に特異能力を使うとそれ以前の記憶が消失する。つまり、今まであたしたちの為に頑張ってくれたのは紛れもない事実なんです」
華之が死んだ日。所長が居なくなった研究所は次の所長が来るまで本部の預かりになるはずだった。だが廬はそんな事は知らないと佐那を所長にした。佐那も華之の意思を受け継いだ。その覚悟を以て今ここに立っている。
「あたしだけじゃない。他の人だって糸識さんによくしてもらっていたはず、彼はずっとあたしたちの事を考えて、後遺症で苦しむ人を支えてくれた。……助けて貰うばかりで良いんですか? 彼が危険に陥っているかもしれないのに、此処で関係ないと知らないふりをするんですか? あたしはそんなの絶対に嫌」
「じゃあどうするって言うのよ」
「そうだ。俺たちはB型だ。新生教会ってA型の集まりみたいなものだろ。無理だ」
A型は力の抑止が出来ずに暴走することがある。B型はその力の抑制の為に装置が身体に埋め込まれている。互いに争っても特異能力の使い過ぎでB型が死ぬだけ。
(皆、諦めてる。そう、実際無理な事だって言うのはわかってる。糸識さんを助けるって言ってもたった二つの研究所、事実上一つの研究所に何が出来るって……)
「ちょっとちょっと無理って決めつけて恩を仇で返すって凄いダサいと思うんだけど」
「負け犬根性だからね。すぐに諦める」
異論を唱える新生物の中から呆れた声が二つ、聞こえた。佐那が顔を上げるとそこには新生物の双子。
特質して凄い特異能力を持っているわけではない。普通に近い子供たち。
佐那が守るべき存在が呆れた様子で周囲を見ている。
「所長ー。俺たちはどうしたら良い?」
「えっ?」
「僕たちは、貴方の命令なら何でもききますよ。出来ることは限られているけどね。僕たちにも手伝わせて欲しいです」
「廬の兄ちゃんと憐の兄ちゃんの二人がゲーセンに連れて行ってくれるって約束したんだよね。だから、片方いないとその約束って流れそうだから」
「僕も糸識さんに勉強を教えてもらってないんです。彼の研究を手伝う代わりに勉強を教えてもらうんですよ」
だから、命令をください。
周東ブラザーズは笑っていた。
「お前たち、冗談だろ? 死ぬ気かよ」
「若い奴は黙ってろ」
二人よりも大きな新生物が訴える。
聡は悪戯っ子のように笑った。
「一度も死んだことない大人がなんか言ってまーす」
「仕方ないよ。彼らは魔術師の恩恵を受けてないんだから」
聡は文句を言った新生物に近づいてその服を掴んでいった。
「死ぬ勇気がなくて厄災を止められるかよ。その場に未来の嫁さんがいるならなおの事命を張らずに、どこで男を見せるっての?」
「そう。その時の手段なんて選んでいる暇はないんですよ。走り続けなければ喰われるなら、逃げ続けるしかない。そして、立ち向かう。たとえ相方が死んでもね」
「あー、でも一度死ぬなら言って欲しいな」
ドッペルゲンガーは同時に死ぬ。
聡は手を離して佐那を見てニッと無邪気に笑う。
「廬の兄ちゃんを助けに行くなら手伝うよ」
「微力ながらね」
二人の様子に嬉しくなる佐那は目に涙を溜めながら「ありがとう」と言った。
「それで焚き付けたつもりか?」
「別に? やらないなら、俺は構わないよ。人間性を疑うけどね」
「誰がやらないと言った」
一人がそう言うと口々に言った。やれることは限られているが出来るだけの事はする。全力は出せなくても何か出来ることがある。
「廬は何処にいるんだ」
「……それは」
わからない。新生教会が何処にあるのかも分からない。
丹下ならわかるだろう。頬を打ってしまった手前素直に場所を教えてくれるか分からない。
「知ってる人いるです」
下手な行動をとれば制圧する為に様子を見ていた劉子が口を開いた。
劉子の横には新生物に少し怯えを見せながらノートパソコンを抱えている大智。
劉子は大智を連れて皆の前に立つ。
「教えてあげるです。廬さんが何処にいるのか」
「は、はい! 廬は此処にいる」
そう言ってノートパソコンを開くと衛星カメラの映像が表示されている。
廬がいるであろう場所にピンが指されていた。
「イタリアの山奥にある教会。だけどカメラじゃあぼやけてよく見えない。それって何かを誤魔化す特異能力を使ってるのかもしれない」
「そこに廬がいるって根拠は?」
「前回廬は倒れたんだ。その時に発信チップを廬に付けた」
「勝手に?」
「お目付け役を任されたから何処で倒れても大丈夫なようにつけてた。まさかすぐにお役御免になるなんて思わなかったし、回収するタイミングがなくてそのままにしてたんだ」
イタリアの新生教会に廬はいる。
「ならそこに乗り込んで廬の奴を掻っ攫えばいいんだな?」
乱暴な新生物がそう言うと佐那は頷くと「指揮官が必要じゃない?」と軽い口調が聞こえた。
「入野さん」
「君の手、結構痛かったよ。そのお礼を兼ねて手伝ってあげる。勿論、戦争なんておっぱじめない。君の意思に則り俺は彼らを導くよ」
「信じて良いんですか?」
「うん、俺は約束は守るよ。約束を破る大人にだけはなりたくない。兄弟が真似をするからね」
御代志の新生物をイタリアに連れて行く。丹下の権力がまだ使えるのなら自衛隊に協力要請が通用するだろう。何よりも政府はまだ研究所が健在であると思い込んでいる。
厄災を迅速に解決するように捲し立てる癖に内部抗争になると息を顰めるのは何処だって同じだ。
丹下は戦える新生物を束ねる。御代志に残る新生物も佐那の指示で行動を起こした。
大智は丹下に情報を送信する為の端末を渡す為に自身の研究室に駆けて行った。
妨害電波でまともに情報が遅れないと意味がないと何処か楽しげだった。
「劉子さんは残ってて」
「です?」
「いざという時の為に」
「です」
佐那に何か思惑があると理解する劉子は頷いた。