第179話 ESCAPE
冷夏の記憶を封じるかのように納屋を撤去して教会の一部として活用した。時間が進むに連れて山の地形も少しだけ変わって、捨てられた新生物を保護してはもう二度と、誰かを失わないように、そうならないようにと力を合わせた。
何度も懺悔する。神に赦しを乞い。必死に生きる。
兄を帰してください。あの日からずっと冷夏は兄を想い続けていた。
そしてやっと見つけた日、彼は別の誰かになっていた。
それでも構わないのだ。もとから兄には中身が必要だと言われていた。
どれだけ非道な方法でも皆とコミュニケーションを取る為に一度の罪を犯す。
その罪すら兄はたった一人で背負ってしまった。
「お兄様に、かつての記憶がなくても構わないです。私は、もう一度あの日をやり直したい」
それは酷く悲しいものだ。
記憶がないまま、相手の事をどう感じて良いのかもわからない。
廬は言葉が出てこなかった。下手に言葉を言えば泣かせてしまう気がした。
かつての兄妹みたいに過ごすことが出来れば、互いに良かったのだろう。
この教会で過ごした日々を覚えていたら廬も楽だっただろう。
「申し訳ございません。混乱させてしまいましたね。お兄様、いえ、廬様はありのままお過ごしください。私は勝手に廬様を想っております。気味が悪いのでしたらすぐにでも貴方様の前には現れません」
「……それでお前は満足するのか? お前はそれで良いのか?」
「廬様の願いが私の願いです」
その笑みは悲しく。また泣きそうな顔をしている。
「……とりあえず、もう泣かないでくれないか? お前にそう言う顔をされると……俺が悪いみたいになる」
実際廬が悪いのかもしれないがそれでも冷夏に何もしてないのだ。泣かれたくはないと言うと冷夏はきょとんとした顔をした後、涙を払ってくすりと笑う。
「はいっ」
冷夏は廬に部屋を与えた後「まだやる事が残っているので」と別れた。
居心地が悪いとは思うが部屋に残っていて欲しいと言われてしまい。廬は軽く閉じ込められている。
「はあ……」
まさかこんな事になるとは思っていなかった。
廬はベッドに腰かけてやっと現状態を整理する時間を得た。
裏切り者の濡れ衣を着せられて本部に向かった先では参加していた研究者の皆が死んでいた。屍となって襲い掛かって来る始末。助けに来たと言っておきながら別の用事を片付けに来た鬼殻も今頃どこで何をしているのか。
鬼殻の事だ、冷夏に殺されてはいないだろう。冷夏もその事は何も言っていなかった。訊かなかったから冷夏は言う必要もなかった。
結局此処が何処の地域なのかもわからない。海外なのか、日本なのか。
だが冷夏を探している最中に男は日本語を話していたが、黒髪だが彫りが深い顔つきをしていた。すれ違った子供も金髪や赤毛と言った日本人にしては色彩豊かだった。部屋から聞こえて来た話し声も部分的には海外言語が使われていた。
何よりも冷夏が日本人の顔つきをしていない。名前は日本人のそれに思えるが偶然なのかもしれない。
「はあ」
「溜息をすると幸せが逃げるそうですよ」
「!?」
声が聞こえると窓が開け放たれていた。
開け放たれた窓の縁に立っているのは鬼殻だった。
「やっぱり無事だったんだな」
「ええ。あの程度の特異能力で私を退けることは不可能ですよ」
黒い外套を羽織った鬼殻は部屋に入って来る。
「探しましたよ。廬君」
「お前が探していたのは、冷夏の上司だろ」
そう言うと鬼殻は少しだけ目を見開いて「本当に心配したのですがね」と困った顔をした。
「どうかしましたか? そんな卑屈になって」
「……俺は此処にいたらしい」
「そのようですね。元気よく女性との逢引を楽しんでいたようでしたが」
「見てたのか」
「見たくて見ていたと思いますか? 貴方が政府の機密を漏らそうとした瞬間にその首をどうやって飛ばしてやろうかと考えて気を張っていたのですよ」
「そんな事が無くて安心した」
自身の首を撫でてまだ繋がっている事を確認する廬は安堵する。
「此処は何処なんだ?」
「イタリアの新生教会。そこそこ名の知れた教会ですよ。ですが、入信者がいるのか怪しいカルト教と揶揄されています。無条件で神を信仰する。生き方を選べない者たちが集う教会。信仰者しか入る事の許されない教会。民間人では辿り着くことはまず不可能です」
「イタリア。日本じゃないのか」
「ええ、密入国お疲れ様です」
にっこりと言う鬼殻。
民間人。それは信仰者の有無ではないのだとすぐにわかる。
新生物の為の孤児院。新生物でしか見つける事の出来ない教会。
「俺はこれからどうしたら良いんだ?」
「貴方はどうしたいのですか? あの様子ならかの女性に揺らいでいるのでしょう?」
冷夏に揺らいでいる。彼女を守りたいと言う気持ちはある。
なんて薄情だろうか。女性の涙で意思を曲げてしまう。男なんてそんなものだ。
「はあ……我が妹が可哀想でならない。あれ程貴方の為に頑張って来たと言うのに少し泣いただけで捨てられてしまうなんて、やはり儡君しか妹を任せられませんかね」
嘆かわしいと額を押さえて悲しむふりをする。
「そうじゃない。俺は、瑠美奈だって大切だ。だけど、あの子は」
「所詮は偽り。それとも偽り同士で傷の舐め合いをしますか? 不幸自慢は誰も幸せにはなりませんよ? 今の貴方は無名ではないのですから」
「鬼殻、本当に俺の記憶は戻らないのか?」
「ええ、そのはずですよ。貴方は対象の記憶を自身に複写したその時、かつての記憶は忘却の彼方。忘れているのか、蓋をされているのは知りませんが……それが貴方の後遺症です」
「思い出せそうなんだ。前に何回か、此処の夢を見たんだ。この教会を俺は覚えてるんだ」
思い出せそうで思い出せない。
無性に腹立たしいと思ってしまう。取り戻すことが出来たらもしかしたら冷夏を救えるかもしれない。
「思い出してどうすると言うのですか?」
「えっ」
鬼殻は冷たく言った。
「貴方がいま居る場所は、我々の敵である者たちの根城です。私はこれから此処を破壊する。その為に来ているのです。貴方が何をしようとそれは変わらない。私は皆殺しにします」
「ッ!? ……冷夏を殺すのか」
「ええ、貴方の事を兄と気色の悪い家族ごっこしている女性も殺します。彼女には借りがあるので痛めつけて殺して差し上げますよ」
「敵意がなかったら」
「無ければ研究所の者たちが殺されるわけがないでしょう。忘れてはならない。被害者は我々だ。彼らじゃない。彼らが黙っていたら我々も手出しをしなかった。それに冷夏と名乗るあの女性は、未登録の新生物の中でも凶悪者。百人以上の旧生物を殺しているのですよ? それでも共存を願うと言うのなら私は貴方も殺しましょう」
「っ……鬼殻」
「貴方が言うように私は優しくはないのですよ。なんせ私は鬼ですから」
「どちらに付くか決めたら言ってください」と鬼殻は再び窓から出て行ってしまう。
廬は拳を握る。
もしも自分に記憶保持が出来たら過去を覚えていて冷夏を説得する事が出来たら……今なら言葉を交わすことが出来る。感情を伝える事が出来るのに……。
「なんで……俺はッ」