第178話 ESCAPE
涙を辿って行き付いたのは教会の外だった。教会裏に通じる扉を通って、整理された道には色素の薄い石が置かれて彩る。
その先には小さな川があり橋がかけられた。さらにその先にあるのは小さな休憩スペース。森林を楽しむためなのか、ドーム状の屋根が日陰を作り出している。
教会と違いそこだけが真新しく異質だった。
――ッ!!
屋根の下で、泣いている冷夏を見つけた時、廬の頭に何かが流れ込んでくる。
激しい頭痛と耳鳴りに頭を押さえて顔を顰める。
――もう知りませんっ!
――大嫌い!!
それは廬の頭にはない記憶。
少女が叫んで走り去る光景が見えた。それは以前にもこうして誰かを追いかけていた気がした。
誰かと喧嘩をして逃げる背中を追いかけた気がした。
(此処には来たことはないだろ。どうして、こんな)
新生教会が一体何処にあるのか。それすら廬は知らない。森の奥にひっそりと佇む教会に廬が来たことなんてないはずなのに酷く懐かしいと思えてしかたない。
「冷夏」
何とか彼女の名前を呼ぶ。
廬の声が聞こえハッと顔を上げる冷夏は「お兄様」と切なそうに呟いた。
「此処はかつては整備されていない納屋だったんです。昔、私はお兄様と喧嘩して……よく此処に逃げ込んでいました」
納屋が合ったなんて思えないほど綺麗になっている。それでもなお冷夏は此処に来る。
「……此処に来るたび、思い出してしまいます。あの日、私が勘違いをしなければ、あんな日が来なければ……お兄様とまだ一緒に居られたかもしれない」
「なにがあったんだ?」
「私たちが離れ離れになった日。お兄様は私のお誕生日を祝おうとしてくれていたんです」
十数年前。
まだ幼い少年少女が片手で数えられるほどしかいなかった頃、古ぼけた教会で行われた誕生日会。
孤児である冷夏たちは自分の誕生日なんて知らない為、教会に来た日を誕生日にした。その日は冷夏が教会に来た日だった。
冷夏がこの教会に来てくれた日。冷夏の誕生日。
顔も名前も声もない彼は、孤児たちとサプライズイベントを企画していた。
いつもは事前に誕生日であることを先生が教えて準備をするのだが、その日は違った。
皆、冷夏の誕生日を忘れたふりをしていつも通り過ごして礼拝堂で神と共に祝おうという事になった。
先生もそれに同意してくれていた為、誰もが冷夏の喜ぶ顔を見たいが為にやったこと。けれど上手くはいかなかった。
考えればわかる事だった。
此処は孤児院であり、両親を失った子供たちが集まる場所。
他者に認められず、他者に忘れ去られる恐怖を理解している子供たちが集まる場所であることを。
冷夏は自分の誕生日を、教会に来た日の事を忘れられたのかと孤独を感じてしまった。愛する兄にも誕生日を忘れられた事に絶望してしまった。
「今日、私の誕生日なんですよ」そう言えたら冷夏も幸せだったかもしれない。まだ心の距離がある冷夏では言えなかった。恩着せがましいと思われてしまう嫌われてしまう。
誕生日を忘れて、興味を失われて、相手にされず、言えば嫌われる。
そんな悪循環が冷夏の中で回ってしまった。
兄に愛想を尽かされてしまうのが怖かった。
祝って欲しかった。愛する兄だけでも「生まれて来てくれてありがとう」と言って欲しかった。
「お兄様、今日……その、何か、ありませんか?」
「……?」
「そ、そのお祝い事があったような気がするんです」
あと少しで言えるのに喉が、声が、息が何も出来ない。つっかえて出てこない。
素知らぬ顔をする兄に冷夏は辛くなる。
――ああそうだ。今日は庭でひな鳥が生まれたんだ。冷夏は知っていたんだね。
そんな的外れな事を言われた。
「っ!? もう知りませんっ! お兄様なんて、大嫌い!」
「……!」
涙を溜めて兄を押し退けて駆け出した。自分よりも幼い子供が「冷夏おねえちゃん?」と呼び止めるが振り返るなんて出来ない。
逃げた先は教会裏の納屋。錠前も壊れて軋む音が響いている。隙間風が容赦なく入り込み冬にずっといたら凍えてしまう程だったが、冷夏ならば冬でも此処に籠る事が出来た。
ぐすぐすと涙を流す。誕生日なのにどうして泣かなければならないのか。嬉し涙を流したかった。皆に「おめでとう」と祝って欲しかった。それが罪なのだろうかと自己嫌悪に苛まれる。祝われることが当たり前だと思ってしまったことがいけない事だった。
冷夏は生まれる事を望まれなかったのだから、生まれて来た事を祝われるわけがない。
コンコンっとノックが聞こえた。扉をゆっくり開くと申し訳なさそうな顔をする兄がいた。もっとも誰にも彼の表情を見ることは出来ない。
しかし、不思議な事に冷夏だけは彼の気持ちを知る事が出来た。眉を寄せて困ったように微笑んでいる。
彼の声を誰も聞いたことはない。だが彼は確かに言葉を発している。
そして、彼は言ったのだ。
――誕生日は覚えているよ。一度だって忘れたことはない。冷夏を驚かせたかっただけなんだよ。
酷く優しい声なのだ。音のない言葉。いつも教会の為に頑張ってくれた冷夏に少しでも楽しいを与えたかった。冷夏は皆に愛されている。兄も冷夏を愛している。
誰一人として冷夏を蔑ろになんてしない。
「お兄様っ」
嬉しさの余りなのか一人孤独感に苛まれた後だからなのか、冷夏は兄に抱き着いてわんわん泣いた。兄の温もりを感じながら冷夏は泣いた。
納屋の寒さなど感じないほどの温かさに包まれた。
冷夏はいつも此処に逃げ込む。誰も見つけられない。不気味だから誰も近寄らない。だけど兄だけは、冷夏をいつも見つける。いつも見てくれた。
一頻り泣いて皆がパーティーの準備をしている事を伝えられて教会に戻ろうとした時だった。
物音が聞こえた。誰も近寄らない。誰も来ないこの場所に誰かが来た。先生かと思った。教会の子供たちが心配で来たのかもしれない。
そう冷夏は思っていた。しかし兄だけは違った。
此処には誰も来ないはずだからだ。兄は教会にいる子供たちに誕生日の準備を進めるように伝えていた。だから、心配で誰かが来るなんて事決してない。
「お兄様?」
不審に思った冷夏が呟いた瞬間、兄が選んだ行動は早かった。
冷夏を抱き上げて納屋の中に入る。そして、大きな木箱の中に入れた。どう言う事なのか分からず困惑する冷夏に人差し指で口を押えて静かにしているように伝えられる。
その後、聞こえて来た声は、誰とも知らない男の声だった。
「君、どうしてこんな所に? もしかして、迷子か? 町まで案内するよ。ほらこっちに」
男の声は途絶え……そして、煩い悲鳴を上げた。
咄嗟に耳を塞いで冷夏は必死に声を殺した。
「な、なんだお前! ば、ばけもの!!」
兄を拒絶する声。逃げ出す足音。慌ただしい時間はすぐに終わった。木箱が開かれる。
冷夏が顔を上げると問題のない兄がこちらを見て手を差し伸べていた。
「お兄様」
――大丈夫。心配いらないよ。
冷夏が震えていた為に安心させるように微笑んだ。
自分たちが普通ではない事を知らしめるように男の叫び声が頭に木霊している。
誕生日のパーティーは開かれた。何事も無かったように兄はパーティーに参加した。何事も無かったように過ごしていた。
翌日、先生と兄が教会から出て行く所に遭遇した。教会の外は危ないからと先生にきつく言われていた。だから兄はただの見送りだと思っていた。
「今日を以て彼は卒業だよ」
先生の口から発せられた言葉は冷夏に氷水を被せたような物だった。
だが実際にされても怯えも苦しくもない。熱湯をかけられた方が痛みを感じる。
きっとその現象なのだろうと頭の何処かで他人事のように考える余裕すらあった。
「な、何かの冗談……ですよね? お兄様が卒業なんて」
必死に笑う。残念な事に先生がこういったブラックジョークを言うわけがないと知っている為、嘘ではないのだと分かってはいた。それが余計に冷夏の心を痛めつける。
何事かと近づいてきた子供たちに先生は仕方ないと口を開いた。
「昨日、彼は外の人間に気が付かれてしまいました。皆を守る為に彼の意思で教会を出て行くことになった」
外の人間は冷夏たちを虐げる。ただ見た目が違うだけで、ただ不思議な力があるだけで迫害する。その経験を教会の皆はして来た。どれだけ外が危険かなんて語らずとも理解出来たことだ。
「ちがう……違います! 私がいけないの! 昨日、私が外に出てしまったから!」
だからお願い兄を連れて行かないで……。
あの納屋だけが逃げ道だった。外だと知っていた。だがあんな仄暗い所に人が来るなんて思わなかった。ちょっとした出来心だった。
「けど、人に見られているのは彼だけだからね」
先生は困った顔をする。昨日、木箱に隠されたのは、冷夏を守る為自分の身を晒してでも守ってくれた。嬉しい反面、どうしてあの日、外に出てしまったのか。
どうしてあの日、人間が現れたのか。
必死に兄を引き留めても表情を変えてはくれなかった。
昨日、あの瞬間に兄は覚悟を決めていたのだ。覚悟を決めてもう此処には戻らないと決意した。そこまで速かった。だから昨日、存分に楽しんで先生に伝えた。
子供たちが冷夏を押さえる。冷夏が暴れないように泣きじゃくる冷夏を心配して掴んだ。
仕方ない事だ。皆を危険に晒せない。たった一人が犠牲になれば皆が平和になるのなら……。
――冷夏、ばいばい。
そう微笑んでいるように見えた。
兄の声はもう聞こえない。自分だけに聞こえた兄の声は聞こえない。
自分だけが知っている兄の表情はもう見えない。
悲しみに声を震わせる。
兄が消えた日、クラクラするまで泣いた。頭が痛むまで泣いて、目が真っ赤に腫れ上がるほど泣いた。誰とも口を利きたくないと自室に鍵をかけて、永遠に氷漬けにされていた方が良かったと自分を殺そうとした。だが何度やっても兄の顔がちらついて死ぬ事すら出来ない。
あの日、全てを失った。
「私が皆様を信じてさえいたら……。お兄様を失う事もなかった」