第177話 ESCAPE
一方その頃、反政府組織に誘拐された廬は目を覚ますと仄暗い天井が見えた。
身体を起こして周囲を見回すと教会の礼拝堂のような場所だ。
廬は長椅子に横になっていた。
ステンドグラスから漏れる微かな光。蝋燭が周囲を必死に照らしている。
「……ここは」
覚えがある。夢の中で見た教会の中だ。
間違いで無ければ此処はイタリアという事になる。
大智はそれらしい教会は見つけられなかったと言っていた為十中八九間違い無いだろと廬は結論付けた。
肌寒さが廬を襲う。
気持ちが落ち着いて来ると足音と話し声が聞こえた。
何か言い争うような声だ。
一つは氷の女性。もう一つは知らないしゃがれた声だ。
「お兄様は少し混乱しているだけです。どうか。もう暫く待ってはくださいませんか」
「そうは言ってもあの鬼は言ったのだろう? もう記憶が戻ることはないと」
「それは……鬼の妄言です! きっとお兄様は憶えていてくださっているはず。きっかけさえあればすぐにでも!」
「ならば、三日だ。研究所の連中も彼を放置はしないだろう。三日のうちに本来の記憶を引っ張りでもして思い出させたまえ」
「……たったの三日」
「すぐに思い出すのであろう? で、なければ……残念だが、彼にはそのままの状態で実行させていただこう。もっとも私にとっては本来の彼だろうと今の彼だろうと構いやしないがね」
しゃがれ声は愉快に笑って遠ざかっていく。
礼拝堂の扉が開かれるとそこからは氷の女性が入って来た。
廬が起きてる事に気が付くと目を擦って微笑み浮かべた。
「おはようございます。お兄様」
「お前は……此処は何処なんだ」
「此処は新生教会。私は冷夏。冷えた夏と書き、れいかと読みます」
「冷夏……新生教会って?」
「新生教会とは、お兄様が所属している組織が我々の事を新生物とお呼びになっている事から取った名称です。深い意味はありません。ただこの教会は、新生物の孤児たちの為に用意された施設。孤児院となっているのです」
新生教会は新生物を保護する為にある。
両親を失ったか、両親に捨てられ孤児となった新生物を保護する教会。
畑で作物を育てて、山で家畜を飼育する。一部を自給自足して生活をしている。
華之が夢に見た施設ということになる。
「大丈夫です。今は混乱していて驚いているだけで、すぐに慣れていきます。そうだ! 折角です。教会を案内いたします」
喜々と冷夏は言った。
だが、廬は解せなかった。
「俺はお前たちの敵だろ? どうしてそんな事をするんだ」
「私はそうは思っていません。お兄様が仰るのなら私は何もいたしません」
「どうして俺を此処に連れて来た」
「お兄様は本来此処にいるべきお方。かつてのように此処で暮らすべきなのです」
「俺が、此処にいた? いつから」
「それはお兄様が糸識廬と名乗る前の事です」
(俺を名乗る前。新生物の俺を知ってる。もしかしたら、俺の事を知ることができるかもしれない)
廬と名乗る前、鬼殻に会う前に此処に居た。
知りたかったことが知れるかもしれないと好奇心が廬に囁きかけた。
「冷夏、俺の事を教えてくれないか?」
「! はいっ」
冷夏は嬉しそうに頷いた。
「横、失礼いたします」と長椅子に腰かけると冷夏からひんやりとした空気が漂って来る。冬の匂いが微かにした。
「お兄様は、お優しいんです。私や子供たちと遊んでくださって、お料理もお上手で、たまに神父様がお帰りにならない日はいつも手料理を振る舞ってくださいました。教会のお掃除なども率先して」
冷夏はかつてA型0号がしていたであろうことを語る。楽しそうに、嬉しそうに、昨日あったこと、今日あったことを親に言うようなそんな雰囲気が合った。
だが冷夏が語るどれもが廬の記憶にはない。
心優しい青年だった頃の記憶。そんなのが本当に自分なのかと疑いたくなった。
料理なんてしたことはない。教会に行ったことはない。
糸識廬ではあり得ない事が語られる、自分の事ではない。
もしも誰かの話を聞いて欲しいと言われて聞いているのなら楽しい話となっていただろう。しかしこれは、廬自身の話だ。他の誰でもない。本当の自分に関する話。
相手が嘘を言っている可能性もある。半信半疑の中、廬は冷夏の話を聞き続ける。
何時間、話をしたのだろうか礼拝堂に時計はなく蝋燭が消えかかるまで冷夏は話し続けていた。廬もその楽し気な様子に止めることは出来なかった。
「それでお兄様は、礼拝堂の枯れそうになっている花を押し花にして書庫のしおりとして保管されているんです」
「俺とお前は、そんなに仲が良かったんだな」
そう言うと冷夏は目を伏せて呟いた。
「私にとってお兄様は……居なくてはならない大切なお方」
「……」
「わかっております! 今のお兄様には記憶がない。だから無理に強要もいたしません。ですが、どうか! 拒絶だけはしないでください。見ず知らずの女に兄と慕われても気味が悪いと思われても可笑しくはありません、ですが!」
「冷夏」
「私はずっと……貴方様をお待ちしていたのです。貴方様に一度でもお会いできる日を」
冷夏は瞳に涙を溜めた。だがその涙は冷たさで氷となり床に落ちた。
その醜態を見せない為に椅子から立ち上がり「失礼いたします」と駆け出してしまった。
礼拝堂を出て行く冷夏を追いかけるべきなのか分からず手を伸ばしたが掴むことは出来なかった。
また一人礼拝堂に残された廬は冷夏を追いかける為に意を決して礼拝堂の外に出た。
石の柱が連なった廊下。何処に行ったかなんてわからない。
「あっ! はじめまして!」
「はじめまして!」
「え、は、はじめまして」
突如として声をかけて来たのは子供だった。
まだ十歳にも満たないほどの子供が二人、廬に挨拶をする。
「君たちは」
「おいのりのじかんなの!」
「おいのりべやでおいのりするの」
何者なのか尋ねようとしたが子どもたちはこれから何をしに行くのかと訊かれたと勘違いする。
「せかいへいわ!」
「わるいひとをやっつける!」
そう言って子供たちはワーっとお祈り部屋と呼ばれた場所に駆けて行った。その際、偶然通りがかった白い毛皮のコートを羽織った男に「廊下を走るな」と注意される。
毛皮の男がその手に喫煙具を持っているのを見つけて廬は教会で煙草を吸っている者に注意されたくはないだろうと内心思う。
教会にいることがこれほどまでに不釣り合いな人物に廬はただ見ている事しか出来なかった。
その視線に気が付いた毛皮の男は、ふんっと鼻を鳴らして踵を返した。
「ま、待ってくれ」
「なんだ? 俺は忙しい。お前と話をしている間に金は動いているんだ」
「金? いや、あの白髪の女性を知らないか?」
「冷夏の事か。今頃は自室か、はたまか厨房か。あの女の行きそうな所なんてこの教会内では多数あるからな」
「先生がいないうちに見つけ出すんだな」と男は煙草を吸いながら歩いて行ってしまう。
先生が誰の事を示しているのかは分からない。けれど冷夏を見つけることは許してくれたのか男は廬の存在に何か追及するわけでもなく立ち去って行った。
廬は当てもなく教会の中で冷夏を探す。
石造りの建物。部分的に崩れていたが重要な所はちゃんと補修されている。
たまに子供の姿が見えたり、大人の声が聞こえる。
彼らが全員新生物なんて信じられないと廬は目を疑う。
(瑠美奈も、儡も憐も皆普通の人間と大差ない)
冷夏が言っていたことが真実ならすれ違う子供たちも新生物であり親が捨てたか死んでしまったのかどちらかだった。
嫌と言うほど見て来た。研究者となった日から犠牲となった子供たちがどれ程いたのかを知った。既にこの世にいない子供たちを見て心を痛めた。
廬は教会の中を一周する。流石に部屋の中には入る勇気はない為、窓からそっと覗いた。誰もいなかったりカーテンで仕切られていたりと中を見ることが出来ない部屋もあった。
途中で大厨房があり、沢山の食材が台に置かれていた。そこにも冷夏はいない。
冷夏は何処に行ってしまったのか。
不意に床で何かが光に反射されたのが見えた。近づいて見ると溶けかけた氷だ。
冷夏は涙を凍らせていた。もしかするとこの涙を追ってみたら冷夏は見つけられるかもしれないと完全に溶けた氷の跡を辿る。