第172話 ESCAPE
長い廊下を廬は走っていた。その背後で劉子が追いかけて来る。
吸血鬼と元一般人の力の差なんて計るまでもない事だった。
床に叩きつけられる。顔を床に打ち付けて痛みで顰める。
「所長命令です」
「ああ、じゃなかったらお前が此処までするわけないもんな」
「……です」
「劉子。本気で俺がやったと思ってるのか」
「そんなわけないです。だけど、証拠がないです。こちらが有利になる証言は出来そうにないです」
切なく劉子は言う。仕方ない事だ。劉子の仕事は佐那を守る事でその近くに危険人物がいるのなら排除しなければならない。たとえそれが廬だったとしても変わらない。
あとを追いかけて来た佐那が何事かと集まって来た職員や研究者に告げた。
「糸識廬は一連の研究所襲撃の首謀者として本部に連行します」
佐那と劉子と同じ反応を一様にする。
廬がそんな事をするわけがないと口々に言う。
生き証人がいるのだ。どうする事も出来ない。
「何かの間違いだと思いたいです。それを信じて、あたしは糸識廬を本部に連行します」
ちゃんとよく考えれば廬ではないのは分かり切っていた事だった。
しかし、それらを言葉にしても現状が言葉を否定し続ける。
廬は劉子に拘束されながら研究所を出る為に歩き出す。
劉子を相手に振り解こうなんて思わない。何かの間違いであることを境子に示す方法を探さなければと廬の頭の中で可能性を暗中模索する。
その刹那、道を譲る研究者の中に大智がいた。
「……っ」
大智は何か言おうとしていたが、劉子を前に何も言えず道を譲った。
「大智。もし俺が戻って来なかったら、後の事は頼んだ」
大智は何も言わなかったが強く頷いた。
廬は大人しく本部に連行される。
逃げることは叶わない。ならば、逃げないで受け入れる。しかし決して廬自身がそれを起こしたとは思っていない。事実やっていない事をやっているなど冤罪が過ぎる。
研究所本部にて。
長旅の末に到着してしまった本部で待っていたのは、研究所所長たち。
「たった一人に随分なお出迎えだ」
「それ程の事をしたのです。自覚をしなさい」
境子が中央で言った。
その言葉に廬は可笑しく笑ってしまう。廬は自分が何をしたと言うのか呆れてしまう。
まるで裁判を受けるかのように部屋の中央に立たされ重々しい手錠を前で嵌められる。周囲には怪訝な顔をする者や、歓喜的な表情をする者がいる。十人十色とはよく言うが温度差が激しいのではと内心思う。
行われる裁判。見様見真似のごっこ遊びに見えた。
「糸識廬。貴方は新生物とのことですが、事実ですか」
「自己認識しているかと言われたらNOと答えるだろうな。俺の特異能力は複写だ。それを自分自身に掛けたらしい。お陰で俺は、自分が新生物であることを忘れている」
境子の問いに答えると周囲がざわつく。
「自らの力で自分の在り方を忘れる? そんな馬鹿な話があるものか」
「自覚していないのなら何故、その男は此処にいる。研究所の研究者をしている」
口々に疑問を投げかける。
どうして普通の男として生活していない。
どうして新生物だと気が付くことが出来た。
どうして、なぜ、あり得ない。そんな答えのない疑問。
そんな事を訊きたくてこの場に集まっているわけでもないだろう。
違和感はあった。どうして廬に研究所を襲撃したことを問いたださないのか。廬が新生物である確認などこの場においては然程重要ではない。
「彼は、気が付いていませんよ」
一番冷静な男が口を開いた。
顔を上げれば、そこには怪し気に微笑む鬼殻がいた。
「何故此処に新生物がいる!」
傲慢な男が叫ぶ。この場に新生物はいてはいけないと言いたげに。
鬼殻は困った顔をしたがすぐに笑みを浮かべて廬の横に歩き立つ。
「鬼殻」
「証言をしに来ました。面白い事になっているようで何よりです。廬君」
半分は遊びに来たと言いたげに鬼殻は笑みを絶やさない。
「鬼頭鬼殻、発言を認めましょう。貴方は言いましたね。彼は気が付いていないと。それはどう言う意味ですか」
淡々と尋ねる境子に鬼殻は楽しそうに言った。
その姿は道化師が大道芸を披露する前の茶番をしているようだった。
「言葉通りの意味ですよ。彼は、糸識廬として存在している。彼の記憶は、元となった存在の過去を複写したもの。もう二度と本来の記憶を取り戻すことはないのです。彼は自分を旧生物だと思い込むとても可哀想な男ですよ」
「おい、お前……」
可哀想とは何だと文句を言おうと思ったが言葉を紡いだ。
鬼殻の様子が少しだけ可笑しいと気が付いた。指先が黒く変色している。よく見れば唇が青い。
「その男は、各研究所を襲撃するように指示を出した首謀者として拘束されてきました。その事については?」
「彼が力を使いこなすことが出来ていたらそれも出来たでしょう。先ほども言ったように彼は、自分を旧生物だと思い込んでいる為、力の行使は不可能。もしも力を使いこなすことが出来たなら、今頃私は記憶を書き換えられこの世界を破滅させているでしょう」
書き換えずともその気になれば出来るのではと脳裏に浮かぶ。
「かといってそれが彼が首謀者ではないと言う事にはなりませんね。正直、私が此処にいるのは無意味に近い。証言と言ってもこれと言って彼を擁護する言葉は見つからないのです」
「なんで来たんだよ」
「面白そうだったからですよ」
「何も出来ないのなら! 即刻この場から出て行け! 穢れた種族が!!」
誰かがそう叫んだ。
原初の血を持つ鬼殻を嫌っている者は多くいる。
終えた厄災と言うだけで人々は嫌っているのにこれ以上面倒事を持ってくることは許さないと今にでも鬼殻を殺そうとする威勢が垣間見える。
「この場に何人が穢れていないと言うのですか?」
鬼殻の一言がシンッと静まり返った。
「この場において、一体何人が旧生物と分類された人間なのでしょうね」
「何を訳の分からない事を!」
「ねえ、寒竹境子さん。貴方も同じようにもう生きてはいないのでしょう?」
「鬼殻?」
ガシャンと廬の手錠が外れる。自由が戻って来ると鬼殻は廬を立たせた。
「例えば、既に死んでいる身体に別の魂を植え付けるとどうなるのか。考えるまでもないですよね? 肉体と魂は密接であり、他者の魂を入れたとしても再び息を吹き返すことはない。そもそも腐っているのですから、動く度腐敗が進行するはず。それなのに貴方たちは動き続けている。その理由はもう分かっています。死霊使いが召喚した悪魔との新生物。不気味で奇妙で素敵な事じゃないですか。腐り続けてしまうのを隠蔽する為に、部屋を出来るだけ冷やす」
「……」
「お人形ごっこは楽しかったですか? 未登録の新生物さん?」
鬼殻が決定打を打つと境子以外の者たちは一様に崩れ倒れると蛆虫が飛び出してくる。
「汚らわしい」
鬼殻は顔を顰めて虫を睨みつける。
「どうしてそこまで気が付けたのですか?」
境子が尋ねると鬼殻は至極当然と言った様子で口を開いた。
「余りにも迂闊過ぎたのですよ。厄災の脅威がないと言うのに研究所を襲撃した裏切り者が出たなんて……誰もが疑問に思ったはずですが、生憎と餌が良すぎた所為で誰も疑問を抱かなかった。徐々に侵食していったのでしょう? もう研究所は壊滅状態、貴方の思いのままですよ」
良かったですね。と鬼殻は言う。
本部のビルが寒かったのは既に死んでいる身体を腐らせない為にしたこと。
鬼殻はもし境子が本物ならば確認したいことが合ったがもう死んでいる為に尋ねなかった。
鬼殻は一目見た瞬間から、境子が偽物だという事を理解した。事の成り行きを見守っていると廬が捕まった事を知らされた。御代志研究所では実力のある新生物は検査中。となれば、廬を捕えるのは朝飯前だ。
「もう御代志研究所と筥宮研究所しか残っていないのでしょう? 全員殺しましたか?」