第156話 ESCAPE
御代志町にて。
廬は自身に与えられたデスクで研究資料をまとめていた。
廬の研究は、特異能力を中心に行っていた。
片親の怪物。都市伝説や妖怪、亡霊と言った人ならざる存在が持つ力。
引き継いだ子供もいれば、引き継がない子供もいる。引き継がなければ処分されてしまうか、研究所によっては旧生物として過ごしている者もいる。
後者においては、記憶改ざんを施したあと何処かで旧生物として過ごしている。
政府は、その後のことは関与していない。一度野に放った動物に興味を失せたように、保護もしなければ、支援もしていない。
御代志町と筥宮の研究所は、新生物が生まれて特異能力を得られなくとも支援を惜しまない方針になった。
勝手に決めたことだが、言わなければどれだけ経費を使っていようとバレはしない。金の使い方など政府は気にしないからだ。
キーボードを打ち込む手を止めて廬は一息ついた。
「特異能力を調べて何か意味があるの?」
デスクをのぞき込む儡に「仕事を覗き見るな」と注意しながら背もたれに体を任せる。
「俺みたいに記憶を封じている新生物は、初めのうちはどうやって生きていくのかと思ったんだ」
「感覚じゃないの? 脳の損傷の賜物とも言えるけど」
「怪物と人間から生まれたから、通常の人間と脳の作りが違う。そして、偶然に出来た脳の損傷で特異能力が発生する」
「そこまでは君が考えるよりも早く解明されているよ。君はそれ以上の成果を出すしかない」
「消えた記憶と封じた記憶の違いは?」
「バックアップがされているか、いないかの違いだよ。もっともどうでもいい記憶ほど残っていたりするんだよね。君は思い出したい?」
「……どうだろうな。もしも俺が思い出せる環境にあったとして、今ここにいる俺はどうなる?」
「かつての記憶に上書きされて消えてなくなるか。君が二重に存在するか。その場合、二人の人間の記憶が君の中に存在する事になるね」
糸識廬としての記憶。A型0号としての記憶。
儡の仮説は、前者ならば糸識廬と名乗る者はオリジナルだけになる。
後者ならば、廬は、二重人格者になるという事だ。
すったもんだしてどちらかが残り、どちらかが消える可能性もある。
「何にしても記憶を題材に研究するのは必然的に危険が伴う事になる。その覚悟、君にあるのかい?」
「ああ、俺を資料として研究するだけだ」
「そう。破滅しないでね」
「心配してくれるのか?」
「まさか! 君が破滅してくれたらライバルが減るから嬉しい限りだよ。だけど、本当に馬鹿なことをし始めたら頭から珈琲をかけてやるからさ」
「アイスで頼むよ」
「勿論、ホットにしてあげる」
なんて言っていると劉子がスマホを片手に歩いてきた。
何やら楽しんで来いと言っていたが何のことだか分らず儡と顔を見合わせた。
「劉子。どうかしたのか?」
「佐那さんと聡さんが駅で立ち往生してるです。少し帰って来るのが遅れるです」
「そうか。無理そうならホテルに泊まって明日帰ってきたらいい。早急に片を付けないといけない仕事もないだろ?」
「です」
「何も決まらない定例会議に出席して得られるのは、冷たい視線だけだろうに。彼女も熱心だね」
儡が熱心な佐那に感心する。
「何も決まらない?」
「そう。ただの報告会。何人の新生物が生まれて、何人が死んだのか。厄災の発生までの推定エトセトラ。方針は各研究所に依存してるしね。だから、僕たちが勝手にこの研究所を襲撃したとしても、厄災に関係していなかったら問題はないんだよ」
「厄災が消えた事を知れば卒倒しそうだな。この組織」
どれだけクーデターを起こして研究所を襲撃しても、厄災を止めるという意思があるのならそれは政府にとっては何の問題でもないらしい。
「ぬぉ!」
「劉子? どうかしたのか?」
「……というか、彼女の驚き方は日に日におかしくなってない?」
どうしたのか劉子の方を向くとスマホを見て驚いた顔をしていた。
「これ見て欲しいです」
小走りでやって来てディスプレイを見せて来るのを廬は眺める。横から儡も覗き込んだ。
そこには鬼殼からのメールだった、
『―定例会議の内容―
本日、行われた定例会議の内容が送信されて来たのでお送りします。』
筥宮は以前から所長不在で鬼殼では信頼を得られていないことから定例会議に出席拒否を受けた。しかし、定例会議の内容はしっかりと筥宮の研究所に送信されてきた。
「なんで劉子の所に?」
「遅れるって聞いた時に鬼殼さんに内容が届いたら教えて欲しいって言ったです」
「なるほど」
鬼殻のメールを眺めるといつも通りの代わり映えしない結果報告書。
別段驚くところはない。驚くところは最後の追伸だった。
『とある研究所が襲撃され、捕虜としていた新生物が情報を渡さない為に自決をしました。単独犯ではないと断言している為、そのグループを見つけた者の所属している研究所に多大な支援をすると言っています』
「研究所を襲撃した犯人、もしくは教唆犯を見つけたら膨大な支援を受けられる、ね。随分と大きく出たじゃないか」
「厄災に関係ないんだろ?」
「関係なかったらこんなことは言わない。つまり厄災に関係しているんだよ。もうこの世にはない厄災を巡ってね。馬鹿が釣れた」
儡は何処か楽し気に事の成り行きを想像している。
「とりあえず、佐那たちが戻って来てからだ。その情報が嘘の可能性だって鬼殻の事だあり得る」
信頼していない訳ではない。信憑性がないのだ。
儡たちが御代志の研究所を襲撃した時や鬼殻が筥宮の研究所を制圧した時も研究機関は微動だにしなかった。それなのに何処かの研究所が襲撃された時にだけ動き出すのは違和感を抱かないわけがない。
「厄災がないのに厄災を巡って争うなんて馬鹿みたいだと思わない? 首謀者が誰なのかは知らないけどさ、もしも厄災はもう消えているなんて知ったらどう言う反応をするんだろうね」
大きな問題がないと良いがと廬は仕事に戻った。