第151話 ESCAPE
一か月後。
廬たちは、厄災が消失したことを政府には伝えなかった。確証がなかったからだ。
厄災が消えた事を証明しろなんて無理難題を言われた日には、憐が政府を滅ぼしかねない。
一度滅びそうになった筥宮は、文字通り何事も無く日常へと戻った。
ただ、筥宮の時間だけが二日ほど停止していた為、混乱が生じたのは言うまでもない。その時間停止が厄災の所為と言う事になり政府が収拾に努めている。事実厄災の所為で筥宮のいた旧生物たちは凍結。もしくは仮死状態となっていたのだから仕方ない。
本来なら、建物全てを修理する為の経費がそこで削られてしまうはずだが、厄災消失の際に現れた奇跡に救われた。
当面の間、政府は新生物が活動していたという痕跡抹消と筥宮の状態収拾に注力するだろう。
宝玉を全て取り込んだイムは、様々な検査が行われた。イムの生態をより知ることができるいい機会でもあり、宝玉が残っているのかも正確に調べることが出来る。
だが、幾ら調べてもイムの中から宝玉は発見されなかった。消化器官が存在していないはずだが、瞬間消化でもされたのかと研究者の中で議論が行われていた。
少なくとも研究者の当面の目的はイムとなった女性について調べるところからだ。どう言った出生なのか調べてみなければ、何も始まらない。
新生物の事を知っていて、新生物が特異能力を持っている事も知っていた。鬼殻が人を異形の存在に変えてしまう事も知っていた。何処からそう言った情報が流出したのかも調べなければならない。仕事が山積みで頭を抱えている。
死んでいるはずの鬼殻が生きている事で研究所も大混乱だったが、もう悪意はないと何とか説得すると筥宮の研究所の管理者代行として勤めていた。なぜそうなったのかと言えば、いつでも監視が出来るからだ。その上、研究所には外に出すことが出来ない形而上の生物たちが無数にいる。鬼殻にはその責任を取ってもらう。
まさか、廬との競争事がこの時に実現してしまうとは思っていなかった。口は禍の元だとはよく言ったものだと苦笑いをしていた。何といっても本人が禍津日神《災い》なのだから皮肉だ。
鬼殻が特異能力を使わないようにアンチシンギュラリティを改良した対象物のみに性能を発揮する発信機が搭載された首輪を嵌められていた。
美しい自分が分厚い首輪をつけられたことで余計に美しく見えるとして自分を魅せる為のアイテムとして黙って付けていた。勿論、すぐに受け入れたわけじゃない。全力で反対していたが、死ぬよりはましだろうし、特異能力が使えずとも鬼殻は脅威であることに変わりない。
佐那は、周東ブラザーズと御代志の研究所で責任者として仕事をしている。
死体が見つかっていない棉葉を捜索する為に早く仕事を覚える必要がある。
その補佐として、劉子が就任した。A型である以上、危険だと言われているが功績をあげたのは事実だ。儡と瑠美奈が御代志研究所の新生物たちを説得したのだ。
劉子もこれでやっとふかふかのベッドで眠れると安心していた。
そんなこんなで各々、この一か月は忙しい日々を送っていた。
筥宮総合病院にて。
政府の人間が度々病院に足を運ぶ。その理由も新生物の犠牲になって生き残った唯一の民間人がいるとの情報を何処からか掴んだからだ。
「悪いけど、患者に会わせる事は出来ないわ」
純が言う。
担当の看護師である純は、政府が強引に病室に入って来ようとするのを咎める。
「ですが、我々も彼が心配なので一目見るだけでも」
「話も出来ないくらい衰弱しているのに見て何になるのかしら? 下手に刺激して回復が遅れる方が問題よ」
「……はあ。栗原さん。貴方だってこの件の事は分かっているでしょう? 彼の様子を見て、彼が件を覚えていた場合」
「その場合はどうするというのかしら? 余り舐めたことを言わないでくれる? 此処ではアタシが管理者。患者の命を救うのがアタシの仕事よ。アナタのように出世欲に囚われている馬鹿じゃないのよ」
純が立ち往生している病室の中には、新生物と接触して生き残っている民間人がいる。政府の役員はその人物がどれ程の記憶を保有しているのか確認したかった。
完全に記憶を失っていて、記憶を取り戻す可能性があるのなら重要監視対象になる。純が立ち往生している所為でその確認が出来ずにいた。
新生物と接触して特異能力を発動している所を目撃されているのなら、記憶を改ざんと言う処置を行う必要がある。
旧生物でも総合病院では、研究所と協力体制である為、一部はその事情を知っている。純もその一人であるはずだが、どう言う訳か政府に協力的ではない。
出来る事なら今すぐでも彼の契約を解消したいがなかなかに人手不足という事もあり出来ない。
役員は悔しそうに顔を顰めて「また来ます」と言って踵を返した。
入れ違いに警備員姿の鷹兎が純の前に来て同情したような哀れみの笑みを浮かべた。
「お疲れ様です。純」
「ええ。本当に疲れたわ」
心底うんざりだと純は顔を顰めて役員の背を睨みつけた。
「彼の容態は?」
「順調よ。もっとも重要な所は相変わらず抜け落ちているけどね。見て行く?」
「いいえ。僕は彼には会ったことがないので遠慮します。それに様子を見てきて欲しいと頼まれただけなので」
鷹兎はそう言って「今日はもう引き上げます」と役員と違い早々に踵を返して病室から離れて行こうとすると「待ちなさいよ」と呼び止められる。
「えっと……僕、何かしてしまったのでしょうか?」
「糸識クンたちを研究所に案内してくれてありがとうね。感謝してるわ」
「! ……いいえ、僕に出来る事なんてこれくらいですから。だけど、出来る事なら次は、数日前から教えて欲しいです。言われたその日に警備員に扮するのは少しだけ骨が折れちゃいますから」
そう言って微笑み再び歩き出した。
その背に「まったく」と純は呆れたように腕を組んで息を吐いた。
純は、鷹兎が見えなくなるのを確認して病室に入る。
そこには、少し血色が良くなった真弥が眠っている。
「アンタも物好きね。こんなこと本来なら誰も望まないんじゃないの?」
青の宝玉は人の命を救う事も出来れば、人の命を吸い取ることも出来てしまう。
イムが食べてしまったことにより、真弥の生気は取り戻すことが出来なかった。
一から真弥と言うあり方を取り戻すしかない。誰もが真弥の面倒を見ることは出来ない。いつでも傍にいることなど出来ない。
そんな中、一人が名乗りを上げた。
「だって俺しかいないじゃないっすかー。コイツの面倒見てやれるのはさ」
簡易椅子に靴のまま足を乗せて体育座りをしている憐がベーッと舌を出している。
「コイツを更生するのはこの俺なんで」
いたずらっ子のように笑うその様子に純は安心する。
旧生物が嫌いな彼がまさか名乗りを上げるなんて誰もが驚愕した。
ずっと根に持っていたのだ。憐を更生すると息巻いていた男がこんな姿で仕事放棄している事が気に入らなくて、アンチシンギュラリティの力だとしても出し抜かれたことが悔しかった。
だから、今ここで真弥の面倒を見て恩を売っておくことであとできっと何か良い事があると憐は直感しているのだ。
徐々に記憶を取り戻していっている。生きようとしているのは手に取るようにわかる。あとはこちら側に引っ張るだけ。それだけで真弥は戻って来る。
二十数年の記憶をリフレインしている最中なのだ。それが終わればきっと現世に戻って来る。
「何年かかるか分からないって廬の奴は言ってたんすけど、俺には些細な事っすよ」
「そうね。アナタにとっては些細な事、だけど……彼にとってはあっと言う間ね」
生きようとしている。今日を明日を、必死に身体を動かそうとしている真弥の傍に憐は寄り添う。
瑠美奈も儡も廬も早く真弥が戻って来るように別の所で頑張っている。地を歩けない憐が出来ることはこれくらいしかないとその少しだけ動くようになった手を握った。そして、夢の中だけでもと憐は化かす。