第150話 ESCAPE
ミシミシと嫌な音を立てながら蔓は揺れる。だが絶壁を登るよりは幾分かは楽になった。地上の方でも引き上げ作業をしてくれているようで何もしてなくても地上に近づく。佐那の歌声がはっきりと聞こえて来る。
あと少しだと何とか蔓を握る。
「瑠美奈!!」
廬がやっとの事、地上に戻って来ると佐那が瑠美奈に向かって行き強く抱きしめていた。瑠美奈も驚いたようで「佐那、くるしい」と言えば佐那は慌てて離れる。
しかしその手は瑠美奈の手を掴んで離さなかった。
「ご、ごめんなさい。だけど、本当に心配したんだよ。瑠美奈が落ちて、あたし……もう」
「しんぱいさせてごめんね。佐那」
「っ……うん」
佐那はその目からぽろぽろと涙を流して瑠美奈と話をしているのを一瞥して廬は背負っている憐を並べた椅子に寝かせる。
「地に足を付く頃が許されないのに、それよりも下に行ってしまった。僕は止めたんだよ。だけど、珍しく反対されてね」
儡が背後からやって来る。憐の様子を見て痛ましいと顔を顰めている。
「どの深さで燃えていたのか、誰にも分らない。だけど、憐はその痛みを耐えながら君たちの喧嘩を制裁した」
見ていたわけじゃないが劉子では瑠美奈たちの喧嘩を止める事は出来ないだろうと推測した。事実、憐は瑠美奈と廬のくだらない喧嘩を制したのだ。
堂々巡りを止めなければ瑠美奈も廬も死んでいただろう。
「あの蔓は、何処から持ってきたんだ?」
「佐那が覚醒したんだよ」
「覚醒?」
特異能力の覚醒。佐那は人魚の血を引いている。
中途半端な新生物で特異能力は持ち合わせていなかった。
その美しい声は、生まれつきのモノで、魅了の力は宝玉による恩恵。
そして、今。佐那は怨み憎しみと言った罪を消し去る為に心から歌い続けた。
すると佐那を中心に草木が生い茂ったのだ。
草木は、たまに来る地震で傾くビル、崩れる病院から佐那は勿論の事、周東ブラザーズや儡を守った。
佐那が歌い続ける事で、風が吹き美しい花が渓谷の近くに咲いた。
草木の根を皆で結い合わせて登って来られるように丈夫な蔓を作り出した。
「助かった。あと少しで俺は限界だった」
「憐を背負っている君を見捨てるわけがない。宝玉は? さっきから揺れが来ないから疑問に思っていたんだけど」
ビルが傾き隣のビルに接触している。あと少しで二つのビルはバランスを崩して崩落する。筥宮はもう収拾不可能なのではと思うほどの有り様をしていた。
「イムが、全て飲み込んだ」
「は?」
何の冗談だと儡から声が漏れる。
見ていなければ納得してしまう反応だが、事実イムが宝玉を飲み込んで何処かにやってしまった以上、どうする事も出来ない。
廬の頭の上に乗っていたイムを持ち上げる。
「君、本当に宝玉を全て食べてしまったのかい?」
「びぃ」
イムは肯定とも否定とも取れない。いつもの鳴き声を発する。
「宝玉を中心に厄災は起こります。つまり、イムの体内に宝玉が存在しているのなら、厄災はいまだ進行を続けているでしょう。ですが、今は余震もなければ、厄災の壁が薄くなっている事も窺えます」
鬼殻は同じ厄災の気配を感じとることが出来た。その上で、筥宮に発生している厄災が徐々に小さくなっている事を伝える。イムの中がどうなっているのか、宝玉がどこにあるのかは分からないが、確かな事は一つ。
厄災が終わりを告げた。
筥宮を包みこむ壁は確かに薄く向こうの空が見える。
あと少しで世界は厄災から解放されることを意味していた。
「瑠美奈を死なすこともなく、呆気なく厄災は去っていきました。世界が罪を増やしても宝玉に送られる。それが何処であれ」
「……」
厄災は消えて、世界に平和がやって来る。
イムが食った所為と言うべきなのか、お陰と言うべきなのか。
釈然としないまま、こんな拍子抜けてしてしまうほど呆気なく終わった。
劉子は行動限界がやってきて眠りについた。安全が確保された場所で劉子と憐を寝かせる。
佐那と周東ブラザーズも、そして瑠美奈も疲れて眠りについた。瑠美奈に関しては多くの宝玉を取り込んで、放出して身体が追い付いていない。
廬、儡、鬼殻、そして廬の頭の上に乗るイムは異常がないか、街の中を歩いていた。
見るも無残な光景だ。ビルは傾き今にも崩れ落ちる寸前とも取れた。
まるでゴーストタウンと思えてしまうほど、数分で姿を変えた。
「酷いな。これじゃあ、厄災を止めたとしても非難されそうだ」
複写した記憶だが、その中で確かに生まれ育った街。
特別、街に何か思い出があるわけではないが、こうも滅茶苦茶になってしまうと何とも言えない気持ちになる。
そんな廬の言葉に儡が呆れた様子で言う。
「どうして壊される前に止めてくれなかったんだ。とか? 本当に人の気も知らずにって感じだね。生きているだけましだろうに」
「人間の欲望とは一つ満たされることで二つ三つと増えていきますからね。仕方ないのでしょう」
「だけど、止めない方が良かったとは思わないって瑠美奈なら言うだろうね」
筥宮が滅んで嬉しいなんて思う人はいない。
滅びなければ安堵してくれる人もいるだろう。
厄災によって姿を消した人々は、朝日と共に戻って来るはずだ。
特異能力も戻りつつある。本当に厄災が消えた証拠だ。
「宝玉がある所に厄災が起こる。もうこの世界に宝玉はない。また宝玉が創り出されることはないのか?」
「それはわかりません。もしかしたら私の予想に反して、八つ目の宝玉が生まれて来るかもしれません。どこかの誰かさんのように秘密裏に持ち歩いている可能性もありますから」
「挙句に記憶も無くしちゃってね」
鬼殻と儡がどこかの誰かを苛めるが当の本人は呆れた顔をする。
「どう転んでも結果を受け入れろって事だろ」
「ええ、その場しのぎで厄災が消えたのか。それとも本当に厄災は未来永劫この世から抹消されたのか。経過観察をしてみなければわかりません」
「イムについては? お前は何か知っているんだろ?」
イム。あの正体不明の軟体動物は形而上の生物で間違いない。
この世で形而上の生物を生み出すことが出来るのは知る中で、尚且つ身近で出来るのは鬼殻のみだ。
鬼殻を見ると、肩をすくめて言った。
「私の特異能力を発動した相手の第一号ですよ」
「イムが?」
「ええ。当時は私も自分の特異能力を上手く把握しきれていませんでした。まあ元から危険な力と言われていたので使わなかったのですが、探究心はありました。そこで偶然知り合ったのが、彼女です」
研究所の外、山と研究所を繋ぐ扉。鬼殻はいつもそこから外に抜け出していた。
研究者の行動を全て把握している鬼殻だからこそ出来たことだった。
瑠美奈にその事を教えるつもりはなかった。何故なら、一人二人と教えてしまえば、どんどんその扉の事を知られてしまい。封鎖されることを危惧した。
数回、数十回と脱走を重ねると流石に飽きて来た鬼殻の前に突如として現れた藍色の服を着た女性。フードを目深く被って表情は見えなかった。
「自分は厄災の呪いがかかっている。だから私の力で人間から別の生物に変えて欲しいと懇願してきました」
「誰かもわからない奴の言葉を信じたのか?」
「私は良心的な男だったのですよ。困っている人を救うのは当然でしょう?」
「見返りが怖いね」
「ふふっ。ともかく彼女と私の願いは一致しています。私は特異能力を調整したい、彼女は人間を一時的にでも辞めたい。利害一致した末に私は彼女に触れて特異能力を発動しました。その結果はお察しの通り。私は彼女をぐにゃぐにゃしたブサイクな生物に変えてしまったというわけです」
「……というわけです。じゃない。その後、イムはどうしたんだ?」
「勿論、私の力が制御出来なかった為、放置しましたよ。私があんな触れたくもない生物と一緒に居るわけがないでしょう?」
自分で生み出した生物の面倒を見ないなんて本当にクズだなと廬は鬼殻を軽蔑する。
形而上の生物に変えられたその女性は、行方知れずとなり数年後に瑠美奈と出会った。
「イムはこの後、どうするつもりなんだろうな」
廬は自分の頭の上にいう生物の今後を考えた。
イムは「びぃ?」と分からないと言った雰囲気だ。
「今まで変わらないと思うけどね。イムの行動を制限するなんて不可能だ」
好きな所に行き、好きな所に留まる。それがイムの在り方だと儡は言う。
そんな時だった。イムが廬の頭から降りる。三人の前に来ると極彩色のイムは「びぃ~」と唸りだした。
「イム?」
廬が近づこうとするとイムは「びぎゃっ!」と鳴き光を発した。
何事かと戸惑っていると光の中でイムは形を変えて行く。何が出て来るのかと身構えていると女性の呻き声が聞こえた。
「貴方……」
鬼殻が驚愕した声を出す。光が収まるとそこからは藍色の服を着た女性が座り込んでいた。
「知り合いか?」
廬が鬼殻に尋ねれば「先ほど言っていた方です」と言った。
その言葉で浮上するのは、イムとなった女性の話だ。
「イム? 大丈夫、か……」
目の前にいたイムと思しき女性は廬の視界から消えた。何処に行ったのか視界を映しても見当たらない。ではどこに? と戸惑っている廬に「こっちだよ!」と儡の声が聞こえた。
振り返れば、鬼殻に向かって突っ込むイムの姿、途轍もない速さで鬼殻に向かい拳を握っていた。
鬼殻も素直にその拳を受けるつもりはなく回避すると振り下ろされた右手が地面を殴ると同時に左手が鬼殻に向けられた。その袖口から藍色の蛇が飛び出して来た。
「っ!?」
鬼殻に噛み付こうと蛇がしゃーっと鋭い牙をむき出しにする。鬼殻は瞬時に蛇を払いのける。蛇は土塊となり消滅するとイムは第二第三と攻撃を仕掛ける。
鬼殻に激しい恨みを抱えているのか、怒涛の攻撃はやまない。
彼女の袖から無数の蛇が鬼殻を襲撃すると全てを捌き切れなかったのか一体の蛇が鬼殻の腕に噛み付いた。……すると蛇は弾けるように消滅する。
「……なるほど、これがボクとお前の境界線か」
「満足したようで」
「ああ、満足したさ」
イムが出していた蛇は次から次へと土塊となり消滅する。
蛇が全てが消滅するとイムは廬と儡を見て「すまなかったね」と謝罪をした。
「なにがしたかったんだ」
鬼殻だけを攻撃したのは、恨みがあるからなのだろうと思っていたが今ではそう言った雰囲気はない。何を目的に鬼殻を攻撃したのかいまいち理解出来なかった。
その末にイムは「彼ならわかるんじゃない?」と儡を見る。儡はその視線に驚いて肩をはねた。
「確かに僕自身、形而上の生物たちは目がない。だから特異能力が発揮できないけど、まさか君に使えって?」
儡はイムを凝視するが、知りたい好奇心が合ったのか人の成りとなったイムの瞳を見た。金色の奇妙な瞳。瞳の奥から漂うものが儡に伝わる。
そして、単語が浮上してくる。
「呪い。厄災……いや、神。ごちゃごちゃしてる。ただ分かるのは、確かに鬼殻が言っていた通り、もとは人間だった。その前は……ぼやけてる」
儡は額を押さえて困惑する。イムと言う人物が何なのか分からない。
鬼殻から伝えられた女性であることは間違いない。だが、その女性が鬼殻と会った以前の記憶を儡は見ることは出来ない。
「彼女は確かに厄災の呪いがかかっているね。人間のままでは死んでしまうと言う呪い。……鬼殻に形而上の生物にしてもらった。だけど、誤算だったのは鬼殻が形而上の生物を本来の姿に戻すことが出来なかったこと」
鬼殻は強い力を持ち合わせているが、それを使いこなすことが出来ない。
その事を知らなかったイムが無策にも鬼殻に声をかけた事を後悔している。
「呪いが緩和されて、静かになった頃、元に戻してもらうつもりが様子を見れば元には戻せない。イムは、形而上の生物のまま自分で人の姿に戻る術を探した。そして、幾つもの可能性を探して見つけ出したのは、厄災の呪いを受けているのなら、同じ厄災で相殺できる……であってるかな?」
儡は今までに感じたことのない情報量に必死に整理しながら語る。
人に戻った瞬間に鬼殼に攻撃したのはシンプルに元に戻せなくなった八つ当たりだ。
厄災その者である鬼殻が言うには、筥宮の厄災はもう力を失っている。
イムが厄災の根源である宝玉を取り込んだ事で筥宮に送る罪のエネルギーが消失したのだ。七つの宝玉がイムの呪いとやらを消し去った。形而上の生物として強引に宝玉を抑制している。
「へえ、やっぱりそう言う風に見えているんだね。……まあ、正解だよ、今は力を慣らすために人に戻ってみたけど、身体は思うように動かない。ボクが使う蛇たちも満足に動けなかった」
長い間、人でいることは出来ない。だから鬼殻には頑張ってイムを本来の姿に戻す術を見つけるように告げる。
「ッ……本当はもっとお前たちと話をしたかったんだけど、生憎この街を破壊した分で力が残り僅かだ。悪いけど、形而上の生物であるボクに余り期待しないでよ」
「待ってくれ、まだ話が」
訊きたいことが山ほどあると言うのにイムの身体は再び形而上の生物となり、廬たちが見慣れたイムの姿となってしまった。
「全く謎が多いことこの上ない」
「自分で言っちゃいけない事だよね?」
鬼殻が苦笑して言うと儡が突っ込みを入れた。その直後、地震が起こる。
イムは廬の頭の上に飛び乗って地震から身を守る。
もう厄災は起こらないはずだと疑って周囲を警戒していると儡が厄災の壁に変化がある事を伝えた。
その言葉に二人が壁を見るとまるで結晶のように砕け散り筥宮の街に降り注ぐかのようにキラキラと月の光に照らされていた。
光が乱反射する。眩しいと目を閉ざしていた数秒。
再び顔を上げるとそこには本来の姿の筥宮が合った。
「なっ!?」
「すごい」
「これは……」
三人は驚きの声を漏らす。
厄災が消失する事で、消えかけていた筥宮が元通りになった。
それはまるで夢から覚めるような幻想的な光景、何事もなかったかのように街が動き始めた。