第149話 ESCAPE
「まさか、私がこんな惨めな姿をする事になるとは」
それは鬼殻の言葉だった。
鬼殻でも休憩できる足場が見つからずに地道に壁を登る羽目になった。
瑠美奈が「わたし、ひとりでのぼれる」と言うが、瑠美奈の特異能力は鬼化した際の驚異的身体能力だ。
普通に鬼化してもそこそこの力は有しているが、長時間壁を登り続ける事は出来ない。
特異能力が封じられていなければ、絶壁を駆け上がる事が出来るが、無いものねだり。今は少しだけ力が強い鬼だ。
「別に乗ってても構いませんよ。それが不満なのではないのですから」
屈辱的な恰好をする事が嫌なだけで瑠美奈を背負っている事には問題がないという。
ノンストップで次の足場を向かわなければならないが、それまでに廬か鬼殻の手が限界が来たら落ちてしまう。
「鬼殻。お前、体力に自信あるのか?」
「あると思いますか? 私はインドアですよ」
「だと思ったよ」
「では、こうしませんか? 次の休憩ポイントまで競争です」
「なんで?」
「黙って登るより、競争心があった方が盛り上がると思いませんか? 互いに子供を背負っているのでフェアです」
「憐は子供じゃないだろ! それに、勝ったら何があるんだよ」
「そうですね。貴方の願いを叶えて差し上げますよ」
「信頼性は?」
「100%と信じてください。私、嘘はつきませんよ?」
その言葉がもう嘘っぽいと廬は手を伸ばす。
「お前が勝ったら何をするつもりだ」
「貴方に私の願いを聞いてもらいます」
「お前の願って?」
「それは後程、私が勝利した時にお教えしますよ。どうですか?」
鬼殻もまた少し上に進む。
鬼殻の提案なんてきっとろくでもないのだろう。
しかしながら鬼殻の言い分ももっともだ。何もないまま、黙って登っていると余計な事を多く考えてしまう。何も考えないで登る事が出来れば楽だ。鬼殻の提案を乗る事で何も考えないで済むかもしれない。
「やるよ」
「それでは。……劉子、すみませんが、そこで止まってください」
先を行って安全な所を探している劉子に鬼殻は言う。
劉子がいる場所からスタートにするという。
参加条件はまずそこまで行くことかと廬は憐が落ちないように上を目指した。
劉子がいる位置まで来る。鬼殻は「良いですか?」とスタートの合図をする。
廬は劉子が示した道を進む。願いなんてないが、とりあえず鬼殻には負けたくないと言う競争心なのか、闘争心なのか。
鬼殻に勝ったら何を願えば良いのか。廬の頭の中に今度はそんな事が廻る。鬼殻は廬に何を願うのか。鬼殻ならば、なんだって叶えられるだろう。
廬にわざわざ言わずともなんでも手に入る。
「俺が勝ったら」
「おや。もう勝利の仮定を口にするのですか? 気が早いことで」
そう言いながら鬼殻は「何か思いつきましたか?」と尋ねた。
「全員に謝ってくれ」
「謝る?」
「今までして来た事で迷惑をかけただろ。それを謝ってくれ」
鬼殻が宝玉を得る為に殺した人。鬼殻が特異能力を調整する為に形而上の生物にしてしまった研究者たち。鬼殻の都合で人生を狂わされた人たちに謝罪してくれと廬は言う。
「良いですよ。貴方が勝てば、私に関係して、私が迷惑をかけたであろう人々に謝罪して、あの地下施設にいる生き物は私が責任を以て面倒を見ましょう。もしも違えることがあるのなら、私はまた瑠美奈にでも殺されますよ」
「この競争。そんな命を懸けるほどなのか? 俺はただ謝って欲しいだけなんだが」
「ふふっ。規模は大きくですよ。という事で私が勝利した暁には貴方も命を懸けてくださいね?」
「その条件は、卑怯だろ。後出しだ」
「貴方が勝てば良いのですから問題はありませんよ」
鬼殻よりも先に次のポイントまで辿り着けば良いのだ。
「お前だけ、命を懸けてろ!」
そう言って手足に力を入れる。
こんな遊び程度の勝負に命など懸けられない。
凹凸が少なくなって劉子が強引に登る場所を作り出す。
だが、それも不安定で屑が底に落ちて行く。少しでも気を緩めてしまえば振り出しに戻されてしまうどころの話ではない。
(何がフェアだ。俺の方が軽くハンデ背負ってるだろ)
気絶している憐が間違って落としてしまえば、死んでしまう。起きている瑠美奈は鬼殻の首にしっかりとしがみついているのだ。落ちても鬼殻を巻き込んで生き延びるだろう。
特異能力を常々使っていなければ生きられない憐から特異能力を奪ってしまえば、すぐに命は燃え尽きてしまう。
次のポイントまで十メートルほどだろうか。道を歩いていたらそれ程でもない距離だが、登るとなれば厳しい。今から十メートルなだけで、それ以上も登ってきているのだ。明日は腕が筋肉痛になるのではとどうでもいい事がよぎる。
鬼殻が横で「さあ、あと少しですよ」という。
見上げれば劉子が「こっちでーす」と手を振っている。
丈夫な足場なようで安心する。
揺れが来ないという事は厄災は一時的でも収まったのだろう。
これで厄災が収まっていないで揺れたら目も当てられない。
地割れが続いて筥宮は修復が不可能かもしれないが、それは筥宮の技術に期待するしかない。どれだけ災難に遭っても立ち直って来たのだ。
きっと厄災の壁が消えて、人々が戻って来たら驚く人も現れるだろう。三か月もしたら日常に戻るだろう。
「……っと!」
何とか休憩するポイントまで来た。下を覗き込むと暗闇で底が見えない。
鬼殻も壁を走っては来られないと言っていたのも納得だ。
「お二人とも引き分けです」
劉子が言った。二人同時に足場に手をついたという。
別に真剣にしていたわけじゃないが、引き分けというのは釈然としない。
「お前の願いは何だったんだ?」
「粗末な事ですよ。私個人の事ではないですし、気にしないでください。ドローである以上、互いに勝利条件を遂行する義務は生じません。貴方が律儀に私の願い聞いて実行してくださるというのなら私としては嬉しい限りですが、貴方はそこまで優しい方ではないのは知っています」
「随分だな。気分で叶えるかもしれないだろ」
「気分でね。ええ、でしたら私も気が向いたら貴方に口走りましょう」
もうこれ以上は話をしたって無駄だと「劉子さん、次をお願いします」と言った時だった。上から蔓が垂れる。どう言う事だと首を傾げると聡の声が聞こえた。
「おーーい!! 聞こえるぅーー!? いま、そっちに蔦を垂らしてんだけど、登って来られるぅーー!?」
ただの緑色の蔓と言うより、木の枝を結ったような蔓だった。
丈夫で簡単には千切れたりしないのは、触れて分かる。
だが、一応は都会である筥宮にこんな丈夫な植物があるなんて思わず何処から持ってきたのか疑問になる。
そんな廬を見て「考えるのは登りながらでも出来ますよ」と鬼殻が言う。
憐を背負い直して廬も蔓を握った。