第110話 ESCAPE
「違和感はなかったのか」と訊かれたら「なかった」と答える。
自分が糸識廬でそう呼ばれることに違和感はない。
それが特異能力の真骨頂、一切の違和感を抱かせないほどの完璧な複写。
今だって此処にいる理由を疑っている。今此処にいるのは、廬が自分を証明する為だと頭のどこかで思っている。しかし本当は違って自分が偽物だと言う事を証明する為だと分かっている。
偽廬は自分のやるべき事を明確にしている。自分を取り戻す為に血眼になっている。
廬は偽廬の敵だが、廬も偽廬は敵だ。
だから偽廬は改造されても廬を殺す為に、廬を消し去る為に受け入れた。
(偽物がやっているのは、速さだ。その手に特別な事はない)
廬は考える。偽廬のその手がどう言うものなのか。手の性質が変わっているわけじゃない。鋼や鉄と金属に変換されているわけじゃない。素早く穿つことが偽廬の性質であると読む。
その為、壁がある限り偽廬は廬に傷つけることは出来ない。
憐のように幻のナイフを生み出すわけじゃない、儡のように宝玉で存在しないモノを作り出すわけでもない。偽廬はまだ人間だ。
(……よかった)
そう思った。相手は自分を殺そうとしているのに、まだ偽廬が人間を辞めていない事に安堵した。
不思議な感覚だった。
偽廬が人間を辞めたんだと言った時、酷く心臓が痛くなって焦っていた。
偽廬が人間を辞めてしまう事に抵抗があったのかもしれない。
どうして抵抗する必要があるのか分からない。このまま偽廬が人間を辞めて怪物に成り切ってしまえば、糸識廬と言う人間は一人になり、完全に成り代わる事が出来ると言うのにだ。
廬はまた自分の中で違和感を覚える。成り代わる。
それでは自分が糸識廬ではないと肯定しているようじゃないかと。
無自覚にも気が付いていたのだろうか。頭の何処かで覚えていたのかもしれない。
だが、それでも廬は自分を糸識廬だと否定しない。
偽廬が何度も廬を襲う。それを回避して出来なければ壁が廬を守る。
「俺が死んだら瑠美奈はどうなる」
「安心しろ。俺だってあの子を不幸にしたいわけじゃない。嫌だけどお前を装ってやるさ」
どちらも瑠美奈を不幸にしたいわけじゃない。
というより偽廬は廬より善人なのだから、廬さえ消えたら真弥と同じ好青年なのだろう。
「それにもうあの子には仲間がいるし、お前が居なくても平気だろ」
憐も儡も一緒にいる。佐那がいる。瑠美奈の周りには家族がいる。
彼女の取り巻く環境に廬が居なくても問題はない。廬だけが瑠美奈を気にしているだけだ。
「そうだな。なら……心置きなく」
「……何が心置きなくだ。こっちは人生がかかってんだよ」
拳を向ける偽廬に廬は避けながらその手を掴み背に回した。
少し動きが鈍くなるのを感じて、廬は捕えた手と共に背中を蹴った。
「ッ……」
千鳥足のようになった偽廬は何とか転ばないように踏み止まり振り返ると既に廬が前にいた。
「っ!? くそっ」
また蹴りを入れられると身構えると思っていた通り廬は偽廬を蹴った。
その威力はただの人間のソレじゃない。新生物ゆえの怪力だ。もしも偽廬が身体改造をしていなければ、今頃身構えたとしても両腕に穴が空いていただろう。
「もう取り繕うつもりはないってか」
「取り繕っていたつもりはないが、吹っ切れた」
「瑠美奈が関係していると途端に雑魚になるからな。寧ろありがたい。舐められているままなのは腹が立つ」
「そんなつもりはなかったが……そう思われていたのか、すまなかったな」
下手くそな挑発をしながら廬は偽廬を撃退する為に蹴りを入れて拳を振るったが容易に躱されたあと、廬の頬に爪が掠める。血が滲む。
この程度のかすり傷は宝玉は守ってくれないようだ。
その事に気が付いたのか偽廬は急所を外し始めた。地味な攻撃は体力を奪っていく。
「……ッ!」
廬は膝をついた。近づいて来る偽廬を睨みつける。
偽廬は冷ややかな眼差しで廬の胸に手を突き刺した。
「ぐっ……! ぁ、がはっ」
息が詰まる。口の中に血が溜まり吐血する。
宝玉を取り出そうと偽廬は廬の中で手を動かす。
ぐちゃりと嫌な音が聞こえる。気が遠くなる。
「宝玉の恩恵さえ無ければ、とっくの昔に死んでいるのにお前は宝玉に守られ続けるんだな」
「……ッ」
「だけど、今日でそれも終わりだ。死ね」
留めのように一度手を引いて再び廬に突き刺した。
(瑠美奈……っ)
瑠美奈は強い。文字通り最強の鬼だ。
復讐鬼として鬼殻に標的を定めて生きていた。
瑠美奈は一人でも生きていける。廬が気に掛ける必要がないほどに逞しく生きている。
廬はそんな瑠美奈を気にかけ続けた。鬱陶しいと思っていただろうか、うんざりしていただろうか。
『大切なら自分の身を溝に捨てる覚悟でいろ』
かつて儡に言った言葉が自分に突き刺さる。
廬から取り出される透明の宝玉。
一切の光を通さない黒。光で満ちた穢れない白。
それのどちらでもない何もない先を見通せるほどの透明な宝玉。
もう廬は動けないだろうと偽廬は宝玉を持って踵を返した。
「どこの世界だって偽物が勝つなんて未来はないんだ」
宝玉は預かっておくと言って行ってしまう。
このまま廬が死ぬまで空を見続けるのも一興だろう。だが、それをして許してくれる人が何人いるかだ。
(……真弥。お前はどうなる?)
消えた病院の患者たち。その中には真弥もいる。
ベッドの上で呼吸をするだけの真弥を救えるのは、廬しかいないのではないのか。
このまま廬が死ねば、瑠美奈たちがどうにかしてくれるかもしれない。しかし、もしも瑠美奈が死んでしまえば憐たちは真弥を救うどころではない。
真弥を二の次にしたくない。憐が、儡が瑠美奈を優先するのなら、廬が優先するべきことは一つじゃないのか。
助けなければならない人が確かにいる。
偽物《糸識廬》のたった一人の友人じゃないのか。
「自分……を、溝に、捨てる覚悟をっ……しろ」
「は?」
身体に穴をあけた廬は起き上がる。
血を流してもう死んでいても可笑しくはない。
確かに視界は霞みほぼ見えていない。
ふらふらと覚束ない足取りで何とか立ち上がる。
「……そのまま、動かなかったら生かしておいたのにな」
偽廬は呆れたように廬を見ると息も絶え絶えの状態で言葉を発する。
「俺は、確かに……にせ、ものなのかもしれない。実感、出来ない。その意味を理解出来ない。だけど、それで、も……俺には、俺だけの、親友がいる。そいつを助けない限り、俺は死ねない。死んだらダメなんだ」
「……瑠美奈の次は真弥の心配か。お前、自分の状況が分かっているのか? 俺が一撃を食らわせたら倒れてもう起き上がる事だって出来ないはずだ。そうやって言い訳を考えるのか? 拠り所を探してるのか。誰かの為にやった事だから自分は悪くないって?」
「それの何がいけない? 俺は、あの日々が好きだ。瑠美奈がいて、憐がいて、儡がいて、真弥がいて……俺がいる。その日常が好きだ。それを求めて何がいけない。お前にはない俺の確かなものだ」
瑠美奈が好きだ。大切な子が安心して暮らせる世界を作っていきたい。
だが、瑠美奈だけではダメなのだ。瑠美奈だけでは完成しない。
そこには、憐がいて、儡がいて、真弥がいて、佐那がいて、周東ブラザーズがいて、他にも多くの仲間がいる。他愛のない話をして、くだらない話で呆れて笑う。
それだけでいい。それだけで良かったんだ。特別なんて事は望んでいない。
そんなの初めから分かっていた事だ。
「っ……不死身か、お前」
偽廬が目を疑った。貫いたはずの廬の身体にある穴が修復されていく。
特異能力で治したと言うのかと驚愕するが、その正体はすぐに判明した。
「青の宝玉」
鬼殻が置いてきた宝玉。鬼殻の目的は黒の宝玉を得る事であり、青の宝玉は自身の力を調整する為に持っていただけで不必要になり、台座に置いてきた。
本来なら瑠美奈が持っているべき物だが、鬼殻と会って何もかも投げ出してしまった瑠美奈の代わりに廬が拾ってずっと持っていた。
「お前……宝玉を二つも支配していたのか」
冗談じゃないと偽廬は現実を受け入れられなかった。
瑠美奈以外に宝玉を複数支配出来たものなどいなかったのだ。
廬も不思議だと自身の身体を触る。痛みが消えて完全に傷が癒えていた。