第104話 ESCAPE
「貴方の負けです」
劉子は吸血鬼だ。ただの新生物に虐げられるほど弱くはない。
気が付けば、形勢逆転されていた。
棉葉の返り血で汚れた劉子は、受付の壁に背を預ける棉葉を見つめる。
肩口から流れるように斜めに爪痕が残されていた。もう息も絶え絶えな状態でこのまま放置しても勝手に死ぬだろう。
それもまた素敵な死に様だと棉葉は思った。
卑怯と笑うだろうか。
裏切り者と憤るだろうか。
『そろそろ来ることだと思ったぜ。若人諸君!』
我ながら酷い登場と思った。誰かが来る。ヴェルギンロックに誰かが来るが誰が来るのか分からない。だから、当たり障りのない超テンションの人物を装った。
驚いた顔が三つ。どれも見慣れない人物で彼らが初対面だと言うのはひと目でわかった。
そして、それぞれの記憶を見た。
天宮司真弥は平凡な人生だ。ありふれた人生で廬が現れなければこれからも元気な好青年で素敵な出会いを経て、嫉妬に狂った男に駅のホームで突き飛ばされて愛する電車に轢き殺される。
鬼頭瑠美奈はこれからだって研究所を警戒しながら山の中で軟体生物のイムと暮らしていたはずだ。この先だって変わらず鬼殻を殺した事を憂いながら、家族を見守り続けて儡に利用されてこの世を新人類の世界にしていた。
糸識廬はイムが散歩しなければ、瑠美奈に会うこともなかった。平凡な会社に異動して御代志町の一部となって理不尽に怒られて何も感じないふりを続けて、もしかしたら出会いがあって交際をしていただろう。自分がA型だとは気が付かないままに死んでいただろう。
偶然が羨ましいと思った。必然をこれほどまでに怨んだことはなかった。
(ああ……君たちの輪に入りたかったな)
「……殺しなよ。君にはその資格がある」
「……」
棉葉は血を流していた。劉子は吸血鬼だ。
だから、どれだけ手負いでも棉葉を殺すことなんて容易だった。
「どうして、鬼殻さんについたです。そんなに瑠美奈さんが嫌いだったです? 廬さんが嫌いだったです?」
「……さて、どうだろうね。嫌いではあるよ。それは別に彼らを個々として嫌っていたわけじゃない。旧人類も新人類も嫌いだった。鬼殻だってそれは同じ」
生きとし生けるものが嫌いだ。この世の中で生きて無自覚の幸せを堪能している者たちが嫌いだ。幸せを謳歌している者たちが嫌いで仕方ない。
不幸を嘆いている者たちが嫌いだ。不幸を感じる幸福を知っている者たちが嫌いだ。不幸も受け入れて幸福を得ようとしている者たちが嫌いだ。
「優柔不断なお姉さんはね。こうして、どちらの味方にもなれずに死ぬのが常套なんだよ。まともに人を愛せない癖に、誰かに愛されたいなんて……的外れなことをしたね……本当に、馬鹿だな。私は」
彼に愛されたかった。そんなの土台無理な話だとわかっている。
その視線の先には誰もいないし、棉葉なんて眼中にない事くらいわかっている。
だからその視界に少しでも映り込んでいたら良いなと思う日々だ。
そんな事絶対にないと分かっている。
解っている。
目を閉ざして棉葉は、人生の幕引きを覚悟した。
「まだ殺さないです」
「まさか、人質にでもするつもりかい? 無駄だよ、鬼殻は眼中にない」
「違うです。景光さんの人質にするです」
劉子は包帯を持ってくると棉葉を治療する。
鬼殻の人質ではなく、景光に対する人質だと言う。
怪我をしている為、もう逃げる事が出来ない。
「言っている意味が分からないな」
「景光さんは、昔から貴方の事好きです。貴方を突き出してさとるさんを助けるです」
「君は、随分と残酷なことをするね……鬼みたいだ」
「私は吸血鬼です。瑠美奈さんのようには優しくないです」
その瞳は既に味方として見てはいなかった。敵と言うよりは食べ物を見ている。
実際、劉子はもう棉葉を生かそうとは思っていなかった。瑠美奈はたとえ敵でも、兄でももしもまだ良心が残っているのなら救う為に手を伸ばしただろう。
しかし劉子は違う。裏切るのなら、劉子の気に入らないことは徹底的に排除する。それは眠りを妨げる者も例外じゃないが、余りにも理不尽な為、最近は控えている。
だが今回は問答無用だ。裏切ったのなら生贄でも何でも使ってから殺してしまえばいい。
劉子は棉葉の手当を終えて、首根っこを掴み上げその翼を羽ばたかせた。吸血鬼が持つ治癒能力で強引に生やす。激しい痛みはあれどここでその痛みを嫌がっていたらさとるを救えない。痛みはすぐに消えてしまう。
ばさりと羽ばたかせて棉葉を引きずるように引っ張りさとるの匂いを探した。
病院内に充満している消毒の匂いは劉子にはきつく眩暈がした。
だがそれよりもさとるを見つける為に目を凝らした。
案外さとるはすぐに見つかった。暴れる怪物を見つけるだけで良い。そして見つけた先には、さとるの身体は半分もなかった。それでも不思議な事にまだ生きていた。
「景光さん!」
劉子が叫ぶ。千切った翼が戻っている事に驚いたのか動きが鈍ったが劉子の力を考えれば生やしたのだろうと予想を付けた。
「さとるさんを解放するです。解放しないならこの人を殺すです」
突き出したのは、血まみれの棉葉だ。
「景光さん、言ってたです。この人が好きだって言っていたです。ならこの人をあげる代わりにさとるさんを解放するです」
「っ……手荒じゃないか」
棉葉のそんなクレームも聞かずに劉子は怪物を見る。
かつて劉子に語っていた事を思い出しながら怪物に言う。
研究所で見た、糸垂棉葉が素敵な人だった。面倒くさがりなのに彼女の為なら仕事を率先していた事も劉子だから知っている。
その時、劉子は相棒ゆえに仕事に付き合わされていたがその姿は嫌いじゃない。悪い感情より良い感情がある方が良いに決まっている。
だから、付き合わされる劉子は嫌な気持ちはなかった。
でも今は凄く嫌な気持ちだ。昔のように戻れないと分かっているから劉子は向き合う。
棉葉を怪物に寄せて劉子はさとるを救出する。だがもう息も絶え絶え。生きているのが奇跡なのはわかり切っている。
「しっかりするです! すぐに包帯を巻くです」
治療の方法は分からない。だが怪我をしたら包帯を巻く。
それだけの知識でいた劉子はそれではさとるは治らないと知らない。
包帯は万能の治療法だと信じて疑わない。だから、下半身も戻って来てくれるはずだと引きずる。引きずられ血が床を汚す。
棉葉に気を向けた怪物は、棉葉を乱暴に掴み上げる。太く分厚い爪が棉葉の腹を貫き呻くことも気が付かず怪物は宙に放り投げたと思えば大きな口を開いて棉葉を丸飲みにした。
恋しい。欲しい。その欲望がままに棉葉を飲み込んだ。
劉子はその光景を直視してしまい目を疑う。まさか喰われてしまうなんて思わなかったのだ。何かしたら殺してやる覚悟だったが生きたまま丸飲みに合うなんて誰も予想出来なかった。棉葉は出来ていたのか。そんなのは分からない。
「景光さん」
もう彼は何処にもいないのだと理解する。見据える力がなくとも、全てを考察する力がなくとも、ずっと一緒にいた劉子にとって景光の面影はもう何処にもない。目の前にいるのはただ欲望に負けた怪物だ。
翼を動かしてさとるを抱き上げて怪物の目に届かない場所に飛ぶ。だが街に怪物を放ってはいけない。もしもこちらに近づいて来る者が居たら、救援をだした所為で瑠美奈が来てしまうかもしれない。
(急ぐですっ)
なんとかいまだ痛む翼を動かしてさとるをエントランスに連れて行く。ソファに寝かして包帯をかき集める。もう無理だと疑わない。
「……っ。もう大丈夫です。もうすぐ瑠美奈さんが来てくれるです。さとるさんのお兄さんもきっと無事です」
後遺症が自分たちの生きる道を妨げる。劉子は四時間しか起きられない。
……あと約一時間ほどで劉子はまた眠りについてしまう。最悪零時にならなければ起きられない。
その前に怪物をどうにかしなければ。