第103話 ESCAPE
さとるが怪物に追われている中、棉葉はエントランスホールに到着しトランシーバーを握って叫んだ。
「こちら病院! 景光君が襲撃してきた! 一旦は閉じ込めたんだ。だけど、怪物になって襲って来た! 誰か、手が空いていたら救援に来て欲しい。劉子君が負傷してどうにもならないんだ」
握るトランシーバーからは誰からも連絡は来ない。
ノイズが走り何も聞こえてこない。
「まいったな~。さてどうしようかな~」
トランシーバーに向かって発していた声色とは一変してのんびりと困っている様子もなかった。
ガタリとカウンターにトランシーバーを放り投げる。
「やっぱりです。貴方が裏切り者です」
「……? おはよう、蝙蝠君」
背中から血を流した劉子がやって来る。此処まで頑張って歩いてきたのだろう。
救援要請のためにトランシーバーがあるホールに来ると綿葉が居た。
「儡さんが言ってたです。貴方には鬼殻さんと同じ色が見える……です」
「色ね。その不確かな情報を信じたんだ、儡君は。今ここに廬君もミライ君もいない。私を殺すと豪語した連中は出払っている」
「私がいるです」
「流石に怪我をしている君なら私だって退くことが出来るよ」
「行動を知ってても対処できるかは別問題です」
「言うじゃないか。けど、知らなくていいのかい? 私がどうしてさとる君を救おうとしない。裏切ったのかと言う理由を」
「必要ないです。私は早くさとるさんを助けに行くです」
「それは辞めて置いた方が良い。彼はもう直死ぬ。その上で君が行ったところで君も死ぬ事になる。無駄な死だと思わない?」
「思わないです」
劉子は血を流しながらもさとるを救おうと崩落した病棟に足を向けた。
「やめときなよ。君だってもうすぐ死んじゃう。背中からどれだけの血を流して来たのか知ってるからこそ言える事だよ。私の優しさを無下にしないで欲しいものだね」
足止めをしているのかと劉子は棉葉を凝視する。
「優しさです? なら、どうしてさとるさんを助けないです!」
「今日此処までが私と鬼殻の契約だったと言えば君は信じてくれるのかな? 今日この時、私と劉子君、さとる君が病院に残って皆を待っている。さとる君が死ねば聡君も死ぬ。一石二鳥だ。そして、劉子君が景光君と相討ちにでもなれば好都合であると鬼殻は考えているんだよ。本当に此処までが私の最後の仕事なのさ」
廬を騙して、ミライを騙して、全てこの時の為に棉葉は生きて来た。
皆を筥宮に連れてくることが綿葉の最後の仕事。
「どうしてです。瑠美奈さんが死んでも良いって言うです!?」
「勿論、瑠美奈君が死んでしまうのは、許しがたいと思うよ? 悲しいとも思う。だが所詮はそれは一時の感情でしかない。来年になれば、いや、あと半年かな。……その時、私は瑠美奈君を忘れているんだから、彼女が死んだところでいまの私が悲しむだけなのさ」
悲しいとは思えど、厄災が消える事に比べたら粗末なものだと棉葉は言う。
その言葉は余りにも聞き捨てならないと劉子は棉葉に向かった。床を蹴り鋭い爪を突き立て、吸血鬼特有の牙をむき出しに殺しに来た。
だが、その行動、タイミングも知っている棉葉は軽くいなす。
怒涛の攻撃を仕掛けられても背中に目があるように避ける。
「っ……」
「A型である君がどうしてB型である瑠美奈君を気に掛けるのかいまいち理解出来ない。勿論、情報的理由から察する事は出来る。しかしながら私はやはり所詮はA型、感情をデータ化できないように私は君の気持ちを察してあげることはできないんだ。別に儡君のように感情を知らない訳じゃない。感情がどう動き、どう作用するのかも熟知しているつもりだよ。その証拠に劉子君が私を襲撃する理由は、瑠美奈君を不用品扱いしたからだと言うのも分かっているつもりではいる。故に私は君に言おう」
――たった一人を犠牲にしたら多くが救われるのなら誰もが多くを選ぶだろう。
棉葉が淡々と言う間も劉子は棉葉を殺す為に拳を振り上げる。
「トロッコ問題と言うのを、知っているかな? 私はずっとあの問題を考えているんだ。勿論、私が考える規模は約七十億人の人間と公表不可の新生物一人と言う公式だけどね」
思考実験でよく使われる例題。
論理的に答えることは出来るだろう。だがそこには感情が付きまとう。
善人ならば五人を選び、偏屈者ならば一人を選ぶ。
単純明快。誰にもでも出来る。
棉葉は七十億人を選んだ。自分が善人だとは思わないが、この世界を救った後の事も知っている。
「私はあえて茨の道を行くのさ。たとえ勝算のない道だとしてもね」
だから、瑠美奈を犠牲に出来る。
瑠美奈一人の為に頑張る馬鹿者の為に棉葉は笑い続ける。
「クソくだらない事に時間を割いてきたけど、やっと私はこの世界の毒を見る事が出来る」
瑠美奈を犠牲にした後の世界を情報ではなくこの目で見る事が棉葉の目的だった。
美しい犠牲の中で生まれる汚らわしい毒。
こんな世界ならば救わなければ良かったと思わせる汚物にまみれた世界を見たい。
「きっと鬼殻はそれを嫌悪して片っ端から壊し殺し尽くすだろうね。新生物の為でも、旧生物の為でも、世界の為でもなく、自分自身の為に美しい世界を作る為に殺戮を繰り返す。そして、鬼殻は新生物だからと連鎖的に新生物は危険物扱いされて各研究所から処分命令が出る」
「瑠美奈さんが生きていたらそんな事は絶対にあり得ないです!」
「それはどうかな。彼女が生きていたらそりゃあ崇められるだろう。けど、もし政府が宝玉の存在を公表したらどうなると思う?」
瑠美奈が宝玉を全て支配して厄災を阻止する事が出来て、世界が平和になったとして、宝玉の存在が何かの間違いで露見してしまえば、新生物の存在も芋づる式で知られてしまう。そして、宝玉の力が使えるのは瑠美奈だけ……。
「ありもしない仮設が立ち上がり、瑠美奈君が厄災の根源として扱われる。厄災を起こしたのは瑠美奈君であり、瑠美奈君は新生物だよね? 結局、答えは同じなんだよ。新生物は旧生物を滅ぼそうとしていたってね。恩着せがましいったらないよ! 折角命がけで未知の脅威を止めたって言うのに言いがかりをつけられて滅ぼされるんだから。この世界は救いようがない。儡君の言う通り、世代交代は必要だと思うよ」
「貴方の妄想に私たちを巻き込むなです!」
「妄想? ナンセンス。妄想じゃない。いつか起こる未来の事さ!」
怒り狂う劉子をいなすのは簡単だった。向けられた拳を掴んで床に叩きつければ起き上がるのに少しの時間がかかる。
起き上がらないように背中の傷を踏みつけた。劉子は鈍い呻き声とこちらを睨もうと顔を向ける。
「どれだけ今頑張っても誰かが裏切る。裏切られた絶望感は堪え難い力になる。私はそうやって生きて来た。一度見た者の全てを知った。一目惚れすら打ち砕かれる。どれだけ好きになっても相手は私の力を利用して金儲けをする。どれだけ相思相愛でも力の事を語れば変わってしまい化物と罵られて捨てられる。そんな未来しかない。だけどね、感情って言うのは止められない。どれだけ知っていてもきっと何かの間違いだと知らないふりをして相手に好意を寄せ続ける。そして、その未来に行きつき絶望する。悲しい生き物なんだよ私たち新人類って奴らは……。だからなんだろうね。彼が現れて私はどうかしていたよ。彼は違う。彼なら裏切らない。そう思っても私は既に穢れてしまっている。……君たちが羨ましいと何度も思ったさ。本当に羨ましい。何も知らない君たちが羨ましく妬ましい」
(もう少し、君たちに会う時間が早ければ良かった。もう少しだけ私が正常で居られたら良かったんだけどね)
「……君たちが逃げている間、私が何をしていたのか知らないだろう? 拷問を受けていたんだよ。ずっと、残りのA型の居場所を知る為に私は気が狂う程の拷問を受けた。知るわけがないじゃない。私は君たちを見ていない。知らないんだ。知らない事を言えと言われてどうしろって言うのかな?」
身体中傷つけられて、洗脳を受けて、それでも知らないと言い続けた。
許されなかった。許してほしかった。
このまま殺して欲しかったが、生物の研究をしているのだから何をどうしたら死んでしまうのかも知っていた。地獄だ。こんな所で生き続けるなんて御免だった。
それでも自分の命を絶つことは出来ずに研究所を逃げ出した。
生きている事が出来ない棉葉を生かしたのは、何も知らない町の新入り。
そして、彼が現れた。全てを受け入れる人間が現れた。
「私ね、実は長話は好きじゃないんだよね。だから、もう終わりにしようか。ねえ、劉子君」
棉葉の手にはメスが握られていた。
「吸血鬼って、銀の弾丸が良いってきくけど、実際どうなんだろうね? 現代社会で銀の弾丸なんて見つからないからメスで代用したいんだけど、それで死ぬの? それとも苦しむだけ? まあ、吸血鬼だろうと鬼だろうと首を落としてしまえば結果として死ぬのは知っている。メスだから痛いだろうけど頑張ってね」
劉子の首筋にメスが当てられる。
「ッ……」
「A型もB型も私にとっては…………」
血が滲む。灰色の瞳がこちらを睨み続けていた。