婚約破棄されたけど、そんなことより今日もメシがウマい
読んで下さりありがとうございます。暗い展開を書きがちなので、自分なりに少し明るいタッチに挑戦してみました。
「エミリア・タベールノスキー公爵令嬢!貴殿のような冷たい女との婚約は今日限りで破棄し、代わってキャロライナ・チリペッパー男爵令嬢との婚約を宣言する!」
きらきらと光を反射するシャンデリアの下、自国の第一王子によって自信満々に宣言されたその言葉に、先程までの喧騒が嘘のように会場は静まり返った。
……なんということでしょう。
今日は我が国の建国150年を祝う盛大なパーティーが王宮で開かれている。煌びやかに飾り付けられた会場では、国内の貴族はもちろん、外国からも多数の賓客が招待されている。
その会場で、私――タベールノスキー公爵家長女にして末子のエミリアは、婚約者であるエストマ・イジャクーノ殿下にたった今婚約破棄を宣言されてしまった。
残念ながら、エストマ殿下の父親である国王陛下は現在席を外している。先程臣下の方が青い顔で何かを耳打ちしていたので、緊急で対応が必要な案件でもあったのだろう。
私の家族は、といえば、先日ほろ酔いで歩いていたところ、屋敷の階段を踏み外し見事な階段落ちを決め、結果両脚と左腕を骨折、完治するまで車椅子生活を送っている父と、その介助をして回っている母のふたりは今回のパーティーへの参加を見合わせ。
二人いる兄の内ひとりは父の代わりに広大な領地を駆けずり回りパーティーどころではなく、もうひとりの兄は数年前に「海賊王に、俺はなる!」と謎の言葉を残しマグロ漁船に飛び乗って以来貴族社会から遠ざかるどころか連絡もまともにつかない。
つまり、何が言いたいかというと――今この場に私を弁護してくれるような味方はいないということだ。
私は出来るだけ儚げな表情を作ると、小さい、けれどはっきりとした声で口にした。会場の招待客は遠巻きに事態を見守っている。
「……理由をお聞かせ願えますでしょうか」
「ふん!貴様のような冷たい女と共に過ごさなければならないかと思うとぞっとする!何を言っても不気味な笑みを浮かべるだけで可愛げがない。お前のような陰気な女はウンザリだ!それに比べてキャロライナの素晴らしいこと。私は彼女と出会い、真実の愛を知ったのだ」
鼻息荒くするエストマ殿下は、先ほどからちらちらとキャロライナ嬢に押しつけられている豊かな胸元を見ている。
……成る程。顔もそこそこ、成績は入学以来地を這っていて家格も低いキャロライナ嬢の、一体何処に惹かれたのかと思っていたけど、そこだったわけね。
まぁ、確かに彼女のメロン並みのそれと比べれば、私は絶壁といわれても仕方ない。……べ、別に悔しくなんてないんだからねっ!
「……左様で御座いますか。婚約破棄、確かに承りました」
少しも躊躇うことなく受け入れた私を意外に思ったのか、エストマ殿下は些か面食らっているようだ。
「時に殿下、長年婚約者として過ごしてきたよしみで、最後にひとつだけ、ここでお約束いただけますでしょうか」
「……ふん、何が望みだ。言ってみろ」
相変わらずの高飛車な態度。普段なら腸が煮えくり返る思いだが、今この瞬間の私は、その高慢な態度でさえもスルーしてしまえる程、気分が高揚している。
「この先、エストマ殿下とチキンペッパー男爵令嬢は多々苦労される場面があることでしょう」
「私たちを脅す気か?」と私を睨むエストマ殿下の隣では、赤毛の女が「チキンペッパーじゃなくてチリペッパーよ!」と発情期の猿のようにキーキー騒いでいる。
……ふぅ。ふふふ、普段なら豚の鳴き声の如く不快に感じたでしょうけど、今は朝の小鳥の囀りのようにさえ思えるわ。
「いいえ。私はこれでも、心からお二人のことを応援致しております。真実の愛なのですもの!ですが、残念ながら……陛下や周りの皆様がそう思われるかは……。私と殿下の婚約は家と家との契約ですわ。お二人が結ばれるには、沢山の障害が立ちはだかるでしょう」
エストマ殿下の言うところの“不気味な笑み”を浮かべる私を、殿下がGを見るような目で見てくる。
「……だから何だ。私はそのような圧力には屈しない!キャロライナとならどんな困難も乗り越えてみせるっ」
「エストマ様っ!」
目の前で人目も憚らず抱き合う二人は、会場の冷えきった空気に気づいていない。
「まぁ、それは結構ですわ。でしたら、是非お二人の意志を貫くためにも、この先何があってもキャロライナ嬢と添い遂げる、と、この場で誓っていただきたいのです。国内外の貴族が集められたこの場で宣言してしまえば、如何に陛下とて覆すのは難しくなるでしょう?私はお二人には是非幸せになってほしいのです」
――だからこそ、ない知恵絞って、わざわざ陛下のいない時を見計らい私に婚約破棄を告げたのでしょう?
言外に言いたいことを滲ませ、意味ありげな視線を送ってやれば、私の態度に違和感を抱きながらもエストマ殿下はそれを受け入れた。
「よかろう!この先何があっても、私はキャロライナただひとりを妃とするとここに誓う!」
エストマ殿下は声高らかに宣誓した。オナモミの如く殿下の左腕にべったりとくっついていたキャロライナ嬢は、うっとりと頬を染めている。
私はひとり内心でほくそ笑んだ。私が求めたのは『キャロライナ嬢と添い遂げる』ことだけだったのに、思いがけず『キャロライナ嬢ひとりと添い遂げる』ことを誓ってくれたのだ。なんという幸運。
もう私に、ここでやり残したことはない。
「おめでとうございます。どうぞ、お幸せに。私はお先に失礼致しますわ」
私は深く一礼し、出来るだけ早足で会場を後にする。
エストマ殿下の宣誓を聞いた兵の一人が青い顔で会場から走り去るのを視界の端で捉えていたからだ。
視線はやや下に、俯き加減になりながらも背筋は伸ばしたまま憂いを帯びた表情を作る。愛する婚約者のために自ら潔く身を引いた令嬢として、同情は誘っても決して惨めには見えないように。
そうして馬車に辿り着いた私は、王宮から十分距離が離れたのを確認したところで、両手を天高く突き上げ快哉を叫んだ。
「イヤッホーーーーーーーーーイ!!!これで思う存分ご飯が食べられる!ビバ!婚約破棄!ありがとう殿下!ありがとうキャロライナ嬢!」
涙を流して喜ぶ私を、外から何事かと顔を覗かせた御者が目を丸くして見ている。恐らく気でも触れたと思われたことだろう。
そんなことですら、今の私にはどうでもいい。エミリア・タベールノスキーとして生まれてこの方16年――漸く私の悲願が叶う時が来たのだから。
***
私には前世の記憶がある。五歳の頃、滑って転んで咄嗟に洋服を掴んだ下の兄と一緒に敷地内の湖に落ちたのだ。三日間高熱でうんうん苦しんだ後、目が覚めると思い出していた。
前世の私はこことは違う世界――日本という国の片田舎で育った女だった。
幼少の頃から野山を駆け回り、おやつと言えば畑でもいだ人参やきゅうりを齧る生活をしていた私は、生きていく上でひとつ大きな問題を抱えていた。
小麦アレルギーである。
まだ赤ちゃんの頃、たまたま口にしたパンにアレルギー症状を引き起こし、検査の結果、強い小麦アレルギー持ちであることが分かった。
さぞ大変な生活だっただろう――と思いきや、そうでもなかった。実家が米農家で、食事と言えばもっぱらお米だったからだ。
唯一、ケーキへの憧れはあったが、食べられないものは仕方ない。幸い、小麦以外の物は口に出来たので、誕生日やクリスマスは母がボウル一杯に作るプリンに生クリームを好きなだけ絞って食べるのが定番だった。
幼少期のアレルギーは、大人になるにつれ改善することが多いが、私のそれは残念ながら治ることはなかった。
そんな私は大学進学を機に東京へ出た。するとどうだろう――私は、そこで未知との遭遇を果たした。
お洒落なパンにパスタ、高級ラーメン、ケーキ、マドレーヌ、フィナンシェ……。
田舎から出てきた私の目に映ったのは、沢山の素敵な食べ物たち。
こんなものを食べているのはテレビの中の人だけだと思っていた私は、自分が小麦を口に出来なくてもそれほど悲しく思ったことはなかった。
ところがどうだろう。東京に暮らしていると、大学に行っても、街中を歩いても、至る所にテレビやSNSの中にしか無かった美味しそうな食べ物たちと、それらを当たり前に食べる人々がいたのだ。
無論、私の食欲と乙女心を同時に誘うそれらの殆どには、小麦が使われていた。
あまりのショックに深夜「なしてぇぇぇぇ!?」と叫び、アパートの隣の住人から苦情が来たことさえある。
そんな問題を抱えた私が都会に出て驚いたことは、もうひとつあった。
皆、少食なのである。
大事なことなので、もう一度言う。
皆、少食なのである!
大学に入って出来た友人たちと食事している時に気が付いた。私、大食いだって。
大学の友人たちは、学食を殆ど利用していなかった。なんでかって?安いけど量が多いからだと。
彼女たちは小鳥のような量しか口にしないのだ。「もうお腹いっぱい」とか言って。
え、おかわりしないの?え、それで足りるの?え、まじで?
その時の私の驚きと言ったら無かった。そういえば、前に並んでいる男の人の頼んでいたメニューが美味しそうだったので真似したら、学食のおばちゃんに何度も「本当にいいの?」と聞かれたことがある。あれは、そういうことだったんだ。
ぺろりと米一粒残さず完食した私を周囲が驚きの目で見つめていたのは、普通の女子は食べきれないからなんだ。っていうか多分普通の男子でも食べきれないからなんだ。
美味しかったので三日連続で頼んだら、知らないところでちょっとした有名人になっていて、女子柔道部の人やプロレスサークルの人が次々と勧誘に来たのはそういうことなんだ。
後から分かったことだけど、その時頼んだメニューは、かなり量が多く、アメフト部や相撲部など、沢山食べる人専用メニューの扱いを受けていたセットだった。
小麦アレルギーの私は、友人たちと食事に行っても食べられるメニューが少なかった。彼女たちが好むようなカフェやレストランで私が口に出来るものと言えば、大抵サラダとスープのみ。
イタリアンならリゾットがあるからまだいい方だ。友人がおしゃれなデニッシュだのパンケーキだのを口にする間、草を食むことしか出来ない私。
サラダなんて全然お腹に溜まらない。仕方なく水をがぶ飲みして空腹を紛らわせる日々だった。
誰だよ、我慢していれば胃袋が小さくなるって言った奴。小さくなるどころか、胃袋はぐもぉぉぉぉとモンスターのような音を上げて主張を強くするばかり。
実家にいた時は気付かなかった。食べ物への執着が凄かったんだって。
そんな哀しい日々を送る中――その日はやって来た。一人暮らしの友人の家で開催されたパジャマパーティー。
普段から私が小麦を避けていることを知っていた友人は気を遣って、ちゃんと事前に食べられるお菓子を聞いてくれた。お菓子の中だったらポテトチップスが好きな私は迷わずポテチをリクエストした。
集まった友人たちがジェラート○ケやピ○チジョンなどの可愛いパジャマ(パジャマというか私の田舎だったら普通に日常着に出来そうなものばかり)に身を包む中、まさかの中学の時のジャージというガチパジャマを披露してしてしまった私は、恥ずかしさのあまりやけ食いした。そして――その夜命を落とした、のだろう。
だって知らなかった。ポテチのコンソメ味に小麦が使われているなんて。
友人はSNS映えを意識する子だったから、買ったポテチをそのまま袋から食べるようなことはせず、かわいい木の器に盛って出してくれた。ポテチなら大丈夫と安心していた私は、袋の原材料名を確認せずに食べてしまったのだ。
皆が恋バナで盛り上がる中、次第に呼吸が苦しくなり、意識が遠のいていく。エピペンは鞄の奥底に入っていて、打とうと思った時にはもう身体が動かなかった。視界が真っ暗になり、意識が途切れた。
そして――気付いたら、公爵令嬢のエミリア・タベールノスキーになっていたのだ。
死因がポテチのやけ食いなんてダサすぎる。友人の住んでいたあの部屋は事故物件になってしまっただろうし、目の前で私が苦しむ姿を見てしまったであろう彼女たちのトラウマになっていなければいいのだけど。
――なんて、今更考えても仕方ないことだ。
割り切った五歳児の私は、今世を目いっぱい楽しむことに決めた。
前世の私は実はスピリチュアルな本を読むのが好きだった。笑われると恥ずかしいから、部屋に籠もってこっそりと。
それらの本のどこかに、人は前世で叶えられなかったことを叶えるために生まれ変わる、と書いてあったことを思い出した。
私は真剣に考えた。
前世で私の叶えられなかった願いってなんだろう。
前世でやり残したことなど、いくらでもある。でも、やっぱりなんといっても、生まれ変わらなければ叶えられなかった願いというならば――それは、間違いなく美味しい物を沢山食べるということだ!
幸い、生まれ変わった私に、重篤な食物アレルギーはないようだ。この世界は食文化もそれなりに発展している。おまけになんと――鏡を見たら、由緒ある公爵家の末姫という高貴な美幼女に転生していたという嬉しいおまけ付き!
前世の記憶が蘇って一年――私は食べて食べて食べまくった。
それはもう、両親や兄ふたりが目を丸くして驚く程、お代わりを沢山した。お菓子も食べた。お金持ちの家に生まれてよかった。そうでなければ、私の食費で家計は圧迫されていたことだろう。
不思議なことに、沢山食べても成長期だからか、私が太ることはなかった。もし前世でこの身体に生まれていたのなら、美人大食いユーチ○ーバーとして一世を風靡出来ただろうに、と少し残念に思いながらも毎日美味しい物を食べる日々。
何より嬉しかったのは、前世あんなに焦がれたふわっふわのケーキや、もちもちのパスタ、焼き立ての甘いパンを口に出来たことだ。ほんのり広がる小麦の甘味。前世で何故あんなにも小麦製品が溢れていたか、納得出来るというものだ。
私の尋常じゃない食欲にも次第に慣れたのか、気付けば最初から私に出されるお皿だけ、他の家族の物より沢山料理が盛られるようになっていた。
分かっているじゃないの、と料理長にサムズアップをしてみれば、嬉しそうに頷いていた。そう、前世で紛うこと無きド庶民だった私は、記憶を思い出すと同時にそれまで受けてきたはずの淑女教育が何処かへ消えてしまったのである。
しかし私は公爵家の末姫。困ったわねぇ、とおっとり笑う両親はそれを受け入れてくれた。
そんな楽しい日々が続いたのも束の間――ある日、我が家に王宮から地獄の使者がやって来た。使者が携えていたのは、第一王子との婚約という王命。
当然、公爵家とはいえ一臣下でしかない我が家に断れるはずもなく。
そこからは地獄の日々が始まった。傍若無人で努力嫌いな王子様。苛烈極まる厳しい妃教育。前世なら児童虐待で通報されてもおかしくない所業を繰り返される毎日。
唯一楽しみにしていた王宮での食事時間ですらマナー教育の時間にあてられ、ほんの少量しか口にすることを許されない日々。そもそもぎちぎちに締め上げられたコルセットのせいで、いかに私と言えど、クッキー一枚食べるのにも一苦労だ。
せめて婚約者であるエストマ殿下からのフォローがあればまだ良かったが、奴はとんでもないクソ野郎だった。勉強しない。努力しない。人を思いやれない。
おまけに、そんな傲慢極まりない性格な癖して、奴はなんと、胃弱だったのだ!
ほんの少し香辛料が入った料理を食べるだけでお腹を壊す。牛乳を飲んではお腹を壊す。アイスを食べてはお腹を壊す。魚を食べても肉を食べてもお腹を壊す。
次第に奴に出される料理は御粥やくたくたに煮込んだ野菜スープばかりになった。味は勿論薄味。必然的に奴と同じ食事を食べさせられる私が、食材の産地まで言われずとも分かるようになる程、素材の味しかしない食事だった。
その上、胃弱の奴は当然食べる量も少ない。奴に合わせて私に出される食事の量も少ない。空腹で授業に集中出来ず、夜も眠れない。そのせいでミスを犯しては、覚えが悪いと叱責される日々。
救いと言えば、時たま両親や兄が差し入れてくれる日持ちする菓子だったが、毒見の関係上、一度に持ち込める量にも制限があり、私の腹の足しになる程ではなかった。
そんな生活が続き、唯一の生きる楽しみを奪われた私はある時キレた。こんな薄味やってられっか、と。とにかくキレた。キレ散らかした。
そして、王家と両親と、それぞれに約束を結んだ。
王家とは、何らかの理由で殿下が私との婚約を破棄することがあれば、もう二度と私との縁は求めないこと。
両親とは、何らかの理由で殿下との婚約が無くなった暁には、食べたい時に食べたいだけ食べる権利を。
とはいえ、私とエストマ殿下の婚約は、国王から強く望まれて結ばれたものだ。出来の悪い長男を溺愛している陛下は、第一子ながら母親の生家の爵位が伯爵位と弱い殿下のため、公爵家という強い後ろ盾を求めたのだ。普通に考えれば、余程のことがない限り婚約が破棄されることはない。王家も両親も当の私でさえ、そう思っていた。
風向きが変わったのは、昨年貴族が通う王立学園に入学してから。あのエストマ殿下にとある女子生徒が接近しているらしいと、親切な同級生から忠告を受けた。
その女子生徒こそ、先程エストマ殿下の腕に絡みついていたキャロライナ・チリペッパー男爵令嬢である。
私とエストマ殿下の間に愛情はない。キャロライナ嬢との噂を初めて耳にした時も、まぁ、変わった趣味のご令嬢がいたものだ、という感想しかなかった。
しかし、いかにエストマ殿下との婚約が不本意だったとはいえ、正式な婚約者である以上責務を放棄するわけにはいかない。私も一応努力はした。それとなく婚約者がいる男性には近づかないように忠言したし、殿下の側近候補たちにもなるべく彼らを二人きりにしないよう頼んだ。
しかしそんな努力も虚しく、次第に殿下は私をより蔑ろにするようになり、決まったお茶会や夜会でのエスコートをすっぽかすようになった。
こうなってしまっては、私に出来ることはない。複雑な感情を抱えながら時は過ぎ――そして、遂に本日めでたく婚約を破棄されるに至った、というわけである。
六歳で婚約を結ばされてから苦節十年――漸く……漸く、私は解放されたのだ。
「ひゃっほう!」
公爵家の屋敷に着いた瞬間、私はコルセットを脱ぎ捨てた。もう私を縛るものは何もない。何事かと車椅子で駆け付けた父とそれを押す母に婚約破棄を報告すると、私は真っすぐ厨房へ向かった。
「お、お嬢様!?お待ちください!」
後ろから執事のセバスチャンが必死で追いかけてくるけれど、知らないったら知らない。
前世を思い出してから(心の中では)マブダチ認定している料理長のところまで、一目散で駆けていく。
「ジャン!」
「エミリアお嬢様!帰っていらしたのですか!」
「ふふ、私、婚約破棄されたの!もう王宮に寝泊まりしなくていいし、あんな不味い料理で我慢することも、夜中に水で空腹を紛らわせることもしなくていいの!」
「お、お嬢様……なんと、おいたわしい……」
「と、いうわけだから、何か美味しいものをたっくさーん作って頂戴!小麦粉をたっぷり使った、美味しい料理をね!」
私の言葉に、それまで悲痛な表情を浮かべていた料理長は背筋を伸ばして大きく頷いた。
***
私が久々に帰宅した公爵家の屋敷で美味しい料理に舌鼓を打っている頃――王宮は荒れに荒れていた。
「ばっかもーーーーーーん!」
今にも血管がぶち切れそうに青筋を浮かべ怒鳴っているのは、この国の頂点に立つ国王だ。
先代父王の急死により二十歳そこそこで王位を継いだ現国王は、王太子時代から見せていた賢さと抜け目のなさで賢王として君臨してきた。
残念ながら、その才覚が息子である第一王子に受け継がれていないことは誰の目にも明白だったが、愛する王妃との間に出来た長男を国王は殊の外可愛がっていた。王太子に任命する際も周囲から反対の声が上がったが、王命という形で公爵家のエミリアを婚約者に据え、半ば強引に任命した。
しかし流石の国王も思ってもみなかっただろう。まさか溺愛する長男が、自分がほんの十分席を外した隙に、諸外国の大使がいる夜会で婚約破棄をやらかすとは。
これには息子に甘い国王も怒鳴りつけずにはいられなかった。
王子、それも王太子という責任ある立場でありながら、無責任な行動を繰り返し教養も身についていない、素行不良の第一王子が王太子でいられたのは、婚約者であるエミリアの存在あってこそだった。絶対に拒否出来ないよう、王命を使ってまで強引に結ばせた婚約だったというのに。
それだけならまだしも、あれだけ大勢の前で自らが男爵令嬢と不貞していたことを隠しもせず、真実の愛だなんだと宣った上、件の男爵令嬢ひとりと添い遂げるとまで宣言したというではないか。これでは、男爵令嬢を形だけの正妃に据え、側妃としてエミリアを嫁がせることも出来ない。
第一王子の母親である王妃は、あまりの事態に卒倒してしまった。今は自室で寝込んでいる。
事態の深刻さを理解していない息子と女狐を別々の部屋で謹慎させるように近衛兵に命じると、国王はひとり頭を抱えた。
もはや国王に残された選択肢はひとつ。例え家格が低かろうと、婚約者のいる男に擦り寄る薄汚い小娘だろうと、第一王子と結婚させるしかない。
今でこそ優秀な令嬢として名高いエミリアでも、最初の頃は妃教育についていくだけで精一杯だったと聞く。
調べさせた男爵令嬢の成績は、入学以来ずっと最下位付近をウロウロしていた。本来ならば学園卒業と同時に結婚式をあげる筈だったのだ。
今から詰め込んだとて、あの頭の軽そうな令嬢がどれほどモノに出来るか。
頭痛を感じながら手元のベルを鳴らすと、今後の王太子とその新しい婚約者候補について、教育方針を見直すよう指示を出した。
***
エストマ殿下との婚約が破棄されてから三カ月――エミリアは順調にサイズアップしていた。とはいっても、肥満体になったわけではない。
なんと、喜ぶべきことに、胸のサイズが飛躍的に成長したのである!
六歳の頃からずっと、朝から寝る前までコルセットを締められ、満足にごはんを食べられない生活が続いていたのだ。人より食欲旺盛な上に、育ち盛りの私の身体にはやはり栄養が不足していたのだろう。
これまでほんのささやかな小山があるかな?というくらいだったのが、僅か三カ月で大きめの林檎くらいのサイズにまで成長した。あれだけ必死に寄せて上げても谷間の片鱗すら見えなかった私の胸部は、今はコルセットで締め上げなくとも豊かな谷間を見せつけている。
勿論、折れそうに細い腰とくびれは顕在のままだ!
今まで着ていたドレスが軒並み入らなくなってしまったことだけは困ったが、王太子妃になる可能性がなくなった今、王子の婚約者に相応しい服装を!などと余計な価値観を押し付けてくる人もいない。貴族として問題ない程度に動きやすくシンプルなドレスを何枚か仕立て、それを着回している。
改善したのは胸のサイズだけではない。肌の調子も髪の艶も爪の強度も、みんなみんなぜーんぶ改善した。
両親はあんな形での婚約破棄に私が傷ついているのではないか、よりにもよって酒に酔って怪我などしていたためにその場で守ってやることも出来なかったと後悔していたようだが、私が婚約中には見せることのなかった、心底幸せそうな顔で日々ご飯をモリモリ食べる姿を見て、考えを改めたようだ。
領地経営は既に上の兄が問題なく回していて公爵家は安泰だし、下の兄は先日家族宛に届いた一枚の絵葉書によると、ついに自分の船を手に入れ、トレードマークの麦藁帽子から『麦藁の兄ちゃん』と呼ばれ船乗り仲間や港町の人々から親しまれているらしい。気になる女の子も出来たとか出来ないとか。
そんなわけで、有り難いことに両親としては私が結婚しようとしなかろうと、この先は自由にすればいいと言ってくれている。縁談もそれなりに届いてはいるようだが、今の所まだ私にその気はない。
私との婚約を破棄したあの後――エストマ殿下とキャロライナ嬢は国王陛下からかなり厳しいお叱りを受けたものの、結局は婚約者(仮)としてキャロライナ嬢に妃教育を施すことに決まったらしい。
国王陛下とは以前交わした約束があるものの、エストマ殿下に甘い陛下がキャロライナ嬢をお飾りの王妃として置き、私を側妃として召しあげた上で公務を全て丸投げしてくるのではないかと内心不安だった。
しかしながら、エストマ殿下があの衆人環視の中で叫んだ“真実の愛”の宣言が効いたらしい。王族が公的な場で宣言した言葉を間違いでした、と簡単に取り消せるはずもなく、仕方なく、身分差を乗り越えて純愛を育んだ次世代の二人として方針転換せざるを得なかったようだ。
幼少期から教育を受けていた私ですら、王宮に寝泊まりを強いられ朝から晩まで勉強漬けだったのだ。前世の記憶がある私はそれなりに精神年齢は高いはずだが、その私ですら何度も泣いた。今回、噂を知った段階で調べたキャロライナ嬢の成績を鑑みれば、彼女を待っている教育は地獄の日々だろう。
そして、キャロライナ嬢と殿下の噂が出てから暫くの間、公爵家の影に監視させていた私は知っている。彼女が殿下の前では特大の猫を被っていることを。殿下の前では上手く隠していたようだが、王宮では四六時中監視が付き、逃げ場がない。多大なストレス環境の中、いつまで隠し通せるだろうか。
そんなことをつらつらと考えながら、今日も私は上機嫌でパスタを口に運ぶ。公爵家の料理長の料理はやっぱり最高だ。昼食を終えた後は、メイドと一緒に街で流行りのカフェをハシゴし、夕食は大食いチャレンジが有名な店で仁義なき戦いに挑む予定だ。
上機嫌で屋敷を出発しようという時、玄関がなにやら騒がしくなった。
ちらりと覗いたそこで、迷惑そうなセバスチャンに必死に追いすがっていたのは、かつての婚約者だ。元々小柄だった身体が更に小さくなり、私が最後に見た時より一回りは確実に小さくなっている。土気色の顔や王子だというのにパサパサの肌や髪から、栄養がまともに摂れていないとわかる。
エストマ殿下は私の姿を見るなり必死の形相で駆け寄ってきた。すっかりガリガリになったとはいえ、セバスチャンを振り払う元気はあるらしい。……それとも、火事場の馬鹿力ってやつかしら?
「エミリアっ!聞いてくれ!私はあの女に騙されていたんだっ!」
「まぁ」
その言葉に、私は予想が的中したことを悟り、婚約期間中には一度も浮かべたことがないであろう晴れやかな笑顔を浮かべた。
それを自分が受け入れられているとでも勘違いしたのか、エストマ殿下は勢いづいて話を続ける。
「あの女は……あの女はっ……繊細な俺をっ!俺の胃を……阿鼻叫喚の灼熱地獄へ落としたんだっ。お陰で俺の胃は柔らかく煮込んだ粥しか受け付けない体質になってしまったっ……!あいつは俺を殺そうとしたんだっ」
え、中二?中二なの?そんな詩的な表現が出来るなら、あれだけ逃げ回っていた詩の朗読会に出席してほしかったんですけど。
内心でツッコミを入れつつ、まぁそうだろうなぁ、と思う。
殿下の前ではうまく隠していたようだが、何を隠そうキャロライナ嬢は辛いものマニアだった。学園で殿下と共に昼食を摂っている時は我慢してそのまま食べていたようだが、家での食事には、いいえ、食事だけに止まらずお菓子にさえも、唐辛子のたっぷり入った真っ赤なデスソースをこれでもか、とかけ食べるのが大好きなようだっだ。
私はこれを影から聞いたとき、彼女と殿下に明るい未来はないことを確信した。だからこそあれだけの仕打ちを受けても、公爵家側からは特に処罰を望まなかったのだ。
食べるのが大好きな私ですら苦痛に感じたあの刺激も旨味もまるでない薄味料理の数々に、デスソースを愛している彼女が我慢できる訳がない。
私の予想通りなら、大方愛しているなら大丈夫とかなんとかいって、キャロライナ嬢は自分が殿下に合わせるのではなく、殿下を自分に合わせようとしたに違いない。
そして愛では殿下の極度の胃弱は克服出来ない。彼の消化機能は完全に破壊されてしまった。
失われた愛は戻らない。失われた消化機能が戻らないように。
「頼む、エミリア!私が悪かった!君こそが真実の愛の相手だったと、失って初めてわかった!私ともう一度婚約してくれっ」
あらあら。仮にも王子ともあろう者が土下座とは。
対応に悩むセバスチャンを視線で抑えながら、私はその無様な姿を見下ろした。
それにしても、傲慢な殿下が謝罪を口にするのはこれが初めてなんじゃないかしら。この世界にまだビデオが無いのが悔やまれる。せめて写真にとっておくべき?
「殿下、私の間違いでなければ、殿下は既にキャロライナ嬢と婚約していると思うのですが?」
私の言葉にエストマ殿下ががばりと顔を上げる。
「なんだ、そんなことか。安心しろ、キャロライナとは婚約破棄してきたっ!」
ドヤ顔で胸を張った殿下は、やはり何も変わっていない。傲慢な男のままだ。彼が王太子でいられる日も、そう残っていないだろう。
「まぁ、それはそれは」
笑顔を浮かべながら、視線でセバスチャンに指示を送る。奴を二度と近づけるな、と。
「な、何故だ!?待って、エミリア!エミリアァ!エミィーーーーー!」
しかと頷いたセバスチャンに拘束された殿下が後ろで何か叫んでいるが、気にせずメイドを連れて馬車に乗り込む。
「今日はやけにブタの声がうるさいわね……そう思わない?」
「は、はい、ソウデスネ……」
向かいに座ったメイドの顔が若干引きつっているように見えるのは、多分気のせいだ。
流れる景色を見ながら、誰にともなく私は呟く。
「婚約破棄?そんなことより今日もメシがウマい」と。
~蛇足という名の書けなかった設定たち~
◆キャロライナ嬢→ギネスにも登録されている超辛い唐辛子、キャロライナ・リーパーから
◆実はエミリアの下の兄も、エミリアに巻き込まれて湖に落ちた際に前世を思い出している。典型的なジャパニーズオタクだったので、前世憧れていた某漫画の主人公になりきっている。
◆エミリアは前世でちゃねらー。
読んでいただきありがとうございました!
お時間があれば、作者ページから他の作品も読んでいただけると大変喜びます。