抜け殻と娘
カーテンの隙間から差し込む朝日のまぶしさで、私は目を覚ました。
ベッドから降りた私は、目をこすりながらカーテンを開ける。晴れた空に浮かぶ雲の形で、もう秋が近いことがよく分かった。
……流石に、半袖はちょっと寒いかな……。
少し肌寒く感じたので、私はベッドの逆側の壁にある古い桐箪笥から、淡い桃色のカーディガンを出して羽織って廊下へ出た。
その際、私はまだ寝ているはずの先生を起こさない様、酷く軋むレトロなドアをゆっくり開けた。
私と彼の住む2階建てのこの家は、大正辺りに建てられた文化住宅で、郊外の小高い丘の上に建っている。
小さくて古い家だけど、広さは2人で住むにはちょうど良いし、いろいろ手を入れていているから、生活していて特に不便は無い。
1階に降りて、セミロングの髪をシニヨンにした私は、北側の奥にあるダイニングキッチンで2人分の朝食を作り始めた。
元は三和土だったここも、ミニテーブル付きの対面式キッチンにリフォームされている。
おかずの卵焼きやほうれん草のおひたし、豆腐のみそ汁を作った私は、コーヒーメーカーに豆をセットしてスイッチを入れた。
ゴボゴボ、と音を立てて、コーヒーが抽出されているのを見ていると、
「あっ、おはようございます先生」
短いモジャモジャ頭を掻きながら、眠そうな顔をする先生がキッチンにやってきた。
白いワイシャツに黒いパンツ姿の先生は、モデルさんみたいに脚が長くて、派手さは無いけれど、とても美人な人だと私は思っている。
「……ああ。おはよう、咲耶君……」
華奢な見た目通りの、少し頼りなさげな声でそう返事した先生は、けだるげな様子でテーブルについた。
それを見て、私は茶碗にご飯とみそ汁を手早くよそう。
「やっと良いお天気になりましたね」
それを先生の前に並べながら、私は笑みを浮かべてそう話しかける。すると先生は、私の顔をぼんやりと見ながら、そうだね、と少し遅れて短く返事をした。
自分の分を持って、私が先生の向かいの席に座ると、手を合わせた先生は、いただきます、と小さめの声で言った。それから、卵焼きを一切れつまんで口に運ぶ。
「お味の方、どうですか?」
「……うん。いつも通り美味しいよ」
口の中のものを飲み込んでから、先生は口元をほんの少し緩ませてそう言い、私を褒めてくれた。
「ふふ、それは良かったです」
それにつられて、表情をほころばせてそう言ってから、私は自分の分に手を付けた。
*
朝食を摂った後、先生は家の南側に張り出した洋室の書斎の窓際で、チェアに腰掛けてぼんやりしていた。
先生の視線は、いろいろな庭木が植えられた、遠くに連山を望む庭を向いていた。
定期的に庭師さんが来るので、庭の縁にある低木は綺麗に丸く刈り込まれている。
こんな感じで先生は、1日中ぼうっと庭を眺めて過ごす。
その様子を時折確認しながら、私は洗濯やら掃除やら家事に勤しむ。家電類も全部新しめのものなので、そこまで苦労するようなことは無い。
古さの割に快適なこの家だけど、1つ欠点を上げるなら、とにかく交通の便が良くない事だ。
ここは距離的に、街の中心地から結構近い。だけど、ちょうどバス路線の穴になっているせいで、外出には車かタクシーが必要になる。
そんなこともあって、訪ねてくる人は新聞配達と宅配便の人ぐらいだ。
*
先生と暮らす様になる前。
母の顔を私は全く覚えていない。その訳は、母は私を産んだとき、運悪く大量出血を起こして亡くなってしまったからだ。
父の親友だった先生は、父が仕事で忙しくて帰りが遅いときとかに、代理で私を預かって世話をするほどの仲だった。
どんなに忙しくても、先生は優しく私を構ってくれて、絵の描き方まで教えてくれた。
あんまりにも私が先生に懐きすぎて、父が迎えに来ても帰りたがらないで、父と先生を苦笑いさせていたのを覚えている。
そんなふうに、母親が居なくても、それなりに温かい日々を送っていた。
――だけどそれは、私が10歳のとき、父が過労で亡くなった事であっさりと終わった。
その日は、記録的な大雨が降った日だった。
いつも通り、先生のお家で預かって貰っていたんだけれど、深夜になっても父が迎えに来なかった。
心配した先生が父の携帯に電話をかけると、運び込まれた病院の人が出て、先生に父の死を伝えたらしい。
ニュースキャスターの声をバックに、どんどん蒼白になっていく先生の顔を、私は今でもよく覚えている。
葬儀が終わってまもなく、親戚の人達は私をどうするかと話し始めた。
祖父母を含めて、私を育てられる経済的余裕がある人はゼロで、仕方が無く養子に出されることになった。
先生はそれを聞くと、真っ先に手を挙げてくれて、私を引き取ってくれた。
それから私は今に至るまで、先生の身の回りの世話をして暮らしている。
*
家事を全部終えると、私はいつもの様に先生の書斎へ行った。
少し日は高くなっていたけど、家の周りに生える木のおかげで、窓を開けるだけで十分涼しい。
巻き上げられていた簾を下ろすと、私は本棚から一冊の文庫本を取り出して、先生の向かいのチェアに座る。
「お疲れ様、咲耶君。いつも済まないね」
「いえいえ。私が好きでやってますから」
申し訳なさそうな先生へ、笑ってそう言った私は、いつもの様に愛読書の十石ちひろ先生の小説を読み始める。
ちなみに、先生もファンだから、という事もあって、書斎の本棚には、天才小説家と名高い、十石先生の作品が全巻揃っている。
簾の隣に吊された、金属製の風鈴が奏でる涼しげな音と、雑木林からの葉が擦れる音を聞きながら、私は本を読み進めていく。
そんな休日の穏やかな一時を邪魔するように、
「おや、誰かな」
玄関の靴箱の上に置いてある、小ぶりなサイズの電話機が鳴った。
「あっ、私が出ます」
自ら出ようとした先生へ、私はそう言って立ち上がると、早足で玄関へ向かう。
電話に出ると、受話器の向こうの相手は、ディレクターだという若そうな男の人で、テレビ局と番組名、それと自分の名前を名乗った。
その番組は、表舞台から消えた天才の、今の生活をドキュメントで伝える、というバラエティーだった。
私がそれを丁重に断ると、彼は、ギャラは弾むから、と言って食い下がってきた。
それでも断ると、あからさまに機嫌を悪くした彼は、高圧的な態度で先生に代わるように言う。
「申し訳ありませんが、他を当たっていただけませんか?」
埒があかない、と思って、強めの言葉でそう言って、私は自分から電話を切った。
……何でみんな、そんなに人のプライベートを知りたいんだろう……。
少し精神的に疲れた私は、そう考えながら1つ息を吐いた。
このところ数ヶ月の間、この手の電話がよくかかってくる様になった。
その理由は、もしかしなくても先生が、ほぼ全世代に抜群の知名度がある漫画家だったからだろう。
絶頂期に突然引退した天才漫画家なら、まあ、現状が気になるのは仕方が無いとは思う。
でも無遠慮に先生の悩みを想像して、勝手なことを言われるのは、先生はともかく、私が我慢できない。
「また取材の電話かい?」
「はい……」
書斎に戻ると、私の顔を見た先生は、開口一番、私を労う様にそう言った。
「君が困るようなら、もういっそ、固定電話解約しようかな」
君にこれ以上、迷惑かけられないし、と言う先生は、また申し訳なさそうな顔をする。
「迷惑だなんて思ってませんよ」
むしろ、私の方が先生に養って貰ってますから、と言ってから、私は元の席に戻った。
「私と一緒に暮らさせるには、君は良い子過ぎて勿体ないよ」
どこか虚しさを感じる笑みを浮かべて、そう言った先生は、また外の景色を眺め始めた。
*
先生がこうなったのは、大体3年ぐらい前で、私は当時15歳だった。
その当時、先生は膨大な印税を稼いで、都内の一等地に暮らしていた。
デビュー作から3作連続で大ヒットさせた先生は、40代以下で知らない人は居ない程、凄まじい人気漫画家だった。
今から4年前、その3作目が完結して、いざ次回作、というタイミングで、先生は構想すら浮かばなくなってしまった。
そのときは幸い、同じ出版社の十石ちひろ先生作品のコミカライズ企画があって、1年間の連載をなんとかやり遂げた。
だけど先生は、その後、ついに作画さえも出来なくなってしまった。
引退を宣言した先生は、20人近くいたアシスタントを全員、知り合いの他の先生の所に回した。
作業場兼自宅は売り払って、先生は『缶詰』用に所有していた別荘で隠居することになった。
がらんどうになった部屋で、最後に残った私は先生と向かい合っていた。
「咲耶君は、君の思うように生きて行くといいよ。お金はいくらでも出すから」
先生は私に気を遣って、全寮制の学校に転校する様に勧めてきた。
夕日で逆光になって、少し見えづらかったけど、そう提案した先生の表情は、今よりも酷く悲しげだった。
私がそれを断って、それなら一緒に暮らしたい、と言うと、
「それはダメだ、咲耶君……。こんな抜け殻の三十路女のために、君の人生を無駄にしちゃいけないよ」
先生は困った顔をして、私を諭すようにそう言った。
「無駄なんかじゃ……」
「無駄さ。私にはもう、貯金以外の価値は無いからね」
突き放すようにそう言って、先生は後ろを振り向いた。
だけど、その冷たい声は、本心から言ってるとは思えない程、明らかに震えていた。
「私と先生の繋がりは……、そんなにドライなものなんですか?」
先生の背中にそう問いかけた私は、目頭が熱くなって視界が曇り始めた。
「――ッ」
そんな涙声の混ざった私の声を聞いて、振り返りかけた先生は、
「……そうだよ。私らは血も繋がってないし、ね」
耐える様に全身を強ばらせて、先生はあくまで私を突き放そうとする。
「血が繋がってなければ、一緒に居てはいけないんですか?」
私はそれに抵抗する様、そう訊きながら先生を抱きしめた。
「……いや、そんなことはないけれど……」
こんな私と居たいのかい? と言う先生の声も私と同じ様に、少しくぐもり始める。
「はい。だって私は、先生の箱入り娘ですから」
私はボロボロ涙を流しながら、目を潤ませている先生にそう言った。
「そう……、か……。酷い事言ってごめんね……」
先生は恐る恐る、という感じで私を抱きしめ返してきた。
「大丈夫ですよ。そこまで気にしてませんから」
「君は……、優しい子に育ったんだね……」
「父と先生のおかげですよ」
こうして私は、今暮らしている家へ、先生と一緒に住むことになった。
*
……。――はっ、私いつの間に寝てたんだろ……。
肘掛けに乗っていた肘がズルッとなって、居眠りしていた私は目が覚めた。
「やあ。おはよう、咲耶君」
向かいに座っている先生は、私を見ながらとても暖かい目をしてそう言う。
部屋の扉の右上辺りにかけられた時計を見ると、もう昼過ぎになっていた。
「すいません先生……。つい……」
カッと顔が熱くなってペコペコ頭を下げている私に、
「そのくらい良いよ。君は私の娘であって、小間使いじゃないんだからさ」
先生はにこやかなままそう言う。
「お腹空きましたよね? 今作ります」
「もうちょっとゆっくりしてても――」
すっくと立ち上がった私へそう言って、止めようとした先生の腹の虫が鳴いた。
「ふふ。何にしますか? 先生」
「うーん、そうだね……」
気恥ずかしそうに苦笑いする先生は、あまり手間のかからないし、お中元で貰い過ぎて余ってるのもあってそうめんになった。
「はい。わかりました」
そう言って先生に微笑んだ私は、パタパタと小走りで台所へと向かった。