靴擦れ
吉野綾子は学園のアイドルだ。
ひどく古めかしい言い回しではあるが、多分これが最も的確だろう。透き通るような白い肌、ぱっちり二重に小柄な体、長い黒髪。セーラー服が世界一似合う、「女の子」といった感じ。
その日其処で彼女を見かけたときも、やっぱり同じ感想を抱いた。水で溶かした青を薄く薄く塗り伸ばしたような淡い空と、錆びたフェンス。その前に立つ吉野綾子。まぁなんと、驚くほど絵になる。指定のベージュのカーディガンは他の女の子が着ているのと同じ色同じボタンの位置なのに、どうしてこうも彼女が着ると可愛らしく見えるものなのか。
「誰?」
響いた声は澄んでいる、それこそ今日の空のようだ。振り向いた彼女と目があって、咄嗟に視線を逸らす。いやだって、違う、断じて隠れて見てたとかそんなんじゃない。まさか授業中のこの時間の屋上にやってくる酔狂な誰かが、僕以外にいると思わなかった。それがましてや、僕なんかより数段上の次元にいる吉野綾子だなんて。
「ごめん、僕、3-Bの」
「わたしのこと、知らない人だ」
言いかけた僕の自己紹介は遮られる。吉野綾子は瞬きをして、それから息をひとつ吐いた。
「謝らなくてへいきだよ。屋上はみんなのものだもの」
吉野綾子は緊張気味だった表情をそう言って崩した。
女神か、と。
胸の内でついそうつぶやいていた。僕は本来色恋沙汰やらなんやらとは縁遠い人間だけど、穏やかに笑う吉野綾子が到底信じられないほど愛らしい、それが分からないほど感性が死んでいるわけでもない。
「あなた、絵を描くの?授業中に屋上に来てまでなんて、よっぽど好きなんだね。わたしに気を遣わないでいいよ。」
彼女の小さな手の細い指が、僕の持つスケッチブックを指差した。あ、と声が漏れた。陰気な趣味な自覚はあった。引かれても仕方ないと思った。のに、
「絵を描けるなんてすごいね。いつかあなたの作品がみてみたいな」
彼女の声はやっぱり優しくて穏やかで、どうしようもなく愛らしかった。笑顔で人を殺しかねないとさえ思った。
こうして僕は吉野綾子と出会ったその日、すぐに彼女を作品のモデルにすることを決めたのである。
・
吉野綾子は初めて会ったのと同じ時間、月曜日の3限には必ず屋上にいた。決まってフェンスの前に立って、空を眺めている。僕らのクラスの月曜3限は数学の老人教師で、出席も取らないし生徒をさしたりもしないから、抜け出してたってバレやしない。クラスメートも僕のような目立たない男子を気にも留めていないから、特に告げ口するようなこともしなかった。おかげで僕は毎週月曜3限、吉野綾子を描きに来ることができた。自分がしていることが気色悪い自覚はあった、あったけど、下心とかではなくて、本当に吉野綾子が綺麗だから仕方のないことだった。
彼女といるときは空を描いているフリをしていた。屋上は静寂で、僕が鉛筆を動かす音ばかりが響いていた。それでも空を眺める吉野綾子は、驚くべきことに時折僕に話しかけてくれた。
「今日はね、お母さんがお弁当にわたしの好きな卵焼きを入れてくれたの」
「今日授業で教科書を忘れてしまって困ったわ。友達が貸してくれて助かったけど」
本当にほぼそれらは独り言だったけれど、僕は吉野綾子がその唇で言葉を発しているという事象の美しさに感動した。ましてそれが多少僕に向けられているというそれは、もう夢のようなことだった。僕はうまい返答が出来ないでしょっちゅう口ごもったけれど、彼女はそれをからかったりしなかった。
週を重ねるにつれ、僕は少しずつ彼女を知っていくことになる。
その一、彼女は本当に女神のように美しいこと。
その二、彼女はたくさんの人に愛されているということ。
その三、お母さんの作る卵焼きが好きだということ。
その四、どうやらローファーのサイズが合っていないらしいということ。
その一その二については言うまでもない。彼女の話にはいろんな友達が登場した。学園のアイドルは伊達じゃない、彼女の美しさと優しさはたくさんの人を惹きつけているんだろう。その三、卵焼きについては、彼女は本当によく口にした。というか、彼女の母親が卵焼きを作るのが好きなのかもしれない。話を聞いていると、三食卵焼きが出ているのではないか、という時さえあった。
さらにその四。これは、僕から彼女に話しかけて初めてわかったことだった。彼女の絵を描くにあたって、僕はとあることに気がつく。
彼女はいつも、靴を脱いで立っている。
全く普通の公立高校であるうちの学校の屋上には、当然屋根なんてついていない。雨が降った翌日は濡れているし、普通の日だってホコリやら砂やらが積もっている。彼女の真白な靴下がそれらで薄汚れているのはもったいないと思ったし、純粋に疑問だった。この僕が吉野綾子に質問だなんて思い上がりもいいところだと思ったけれど、ある日思い切って聞いてみた。なんだっていつも靴を履かずに立っているのか、と。
「これ?」
吉野綾子は微笑んで自分の足元を指差した。ぼくはこくこくと首を縦に振った。
「んー...靴擦れがね。痛むんだぁ」
彼女はそう言って、少し困ったように眉を下げる。僕は吉野綾子が質問に答えてくれたというその事実にこれまた感動してしまって、そうなんだ、と声にならないような声で言った。
一度勇気を出してしまえばあとは存外簡単で、僕はそれ以来彼女に話しかけることができるようになった。単純な僕のなかでははじめに彼女に問うた質問が大変美しい想い出になってしまっていて、僕はそれを思い出させるような言葉を僕から彼女への挨拶とした。
吉野さん、靴擦れは治った?
そう言って屋上に入る。なんだか、おはようだとかこんにちはだとか、そう言った言葉より、僕としては言いやすさがあった。そして僕に対して彼女は答える、
てんでダメ、全然良くならないの。
僕はそっか、と答えて座り込んで絵を描く。彼女は空を見る。それ以上の会話を僕から続けるのはあんまりおこがましかったから、僕は彼女が独り言めいた言葉を発するのを待つ。そんな緩やかな月曜日は何回か巡った。彼女は屋上に来るのにふわふわのチェックのマフラーを巻いてくるようになった。僕はその頃にはもう色塗りの段階に入ってしまっていたから、そのマフラーを絵の中の彼女に付けたせないことがもどかしかった。またある日からは、彼女は両手に手袋をはめてきた。僕はまたもどかしがった、その頃にはほぼ絵は完成していた。
そしてある日。
僕は遂に、その絵を描き上げる。
最後、絵の中の彼女の黒い髪を塗り終えて、僕は絵を改めて見てみる。自分で言うのもなんだけど、最高傑作だった。吉野綾子は平面になっても完璧に美しい学園のアイドルだった。たぶん僕の絵筆が優れていたのでなくて、彼女自身がかみさまの最高傑作だから、絵にしてもこんなに良い出来になったんだろう。
「出来たの?」
吉野綾子は僕が動きを止めたらしいことを察して、そう問うてきた。振り返った姿は愛らしい。僕は勢い良く首を縦に振った。こんなに寒くなったのに相変わらず靴下の吉野綾子は、フェンスを離れて僕の元に駆け寄ってくる。
「あれ..これ、わたし?」
絵の出来にすっかり惚れ惚れしてしまっていて、吉野綾子をモデルにしていたという秘密をすっかり忘れていた僕はそこでハッとした。吉野綾子は大きな目を見開いて絵をみていた。血の気がさっと引く。言い訳と謝罪をしようと口を開いたところで、彼女の言葉に遮られる。
「う..嬉しい」
吉野綾子が泣いていた。
彼女の真っ黒な瞳の淵からぼろぼろと大粒の涙が溢れ、頬を伝って落ちる。屋上のタイルにシミをつくる。
「わたしね、わたし、ずっと、欲しかったの」
吉野綾子は嗚咽交じりにそう言う。僕は訳が分からずただ狼狽えた。けれど、彼女が『嬉しい』という言葉を発したのは確実に聞き取れた。喜んでくれたなら、描いたかいがあった。もし良かったら貰ってくれませんか。そんな言葉を、光栄に震えながら紡ぐ。彼女は相変わらず泣きながら、しかし首を横に振る。
「これ、あなたに持ってて欲しい。あなたから見た、わたしでしょう。お母さんの焼く卵焼きをよく食べて、友達がたくさんで、それから、いつも靴擦れしてる、わたしでしょう」
彼女は少しからかうように微笑んで言う。僕は頷く。
「わたしずっとね、欲しかったの。それがなくて、勇気が出なかったのよ」
吉野綾子はすっくと立ち上がる。凛とした姿だった。普段の吉野綾子は愛らしいけれど、この時ばかりは心底「格好良い」と思った。
「ありがとう、わたしが『ここに生きてた』って証明をくれて」
吉野綾子は靴下でフェンスの前に立つ。脇には焦げ茶色のローファーを行儀よく揃えて、ああ、ほら、絵の中にいる通りの吉野綾子だ。僕は恍惚としてそれを眺める。
絵の中の吉野綾子は定位置から動かない。
けれど、立体の吉野綾子は、そこから、動いた。
吉野綾子は細い腕を、フェンスにかける。腰ほどの高さのそれ。彼女は勢いよくとんだ。僕が背景色にした空に、切り取られたみたいに一瞬彼女が浮かぶ。黒髪は細くて、サラサラで、一本一本が宙を踊る姿は美しい。ちらりと見えた形の良い唇の端は緩く持ち上がっているようだった。うん、笑っていた。
彼女は自分を支えていた腕を、フェンスから離す。指先の白さまでまざまざとみえた。た、
そして消えた。
「えっ」
一瞬だった。吉野綾子は一瞬で、僕の目の前から消えていた。ただ残されたローファーと手の中、絵の中の彼女だけが
吉野綾子がここにいたことを証明していた。
数秒後、階下から響いた知らない誰かの悲鳴が、世界に現実味という絵の具を塗りつける。
・
週を重ねるにつれ、僕は少しずつ彼女を知っていくことになる。
その一、彼女は本当に女神のように美しかったこと。
その二、彼女はたくさんの人の妬みを買っていたということ。
その三、お母さんは半年前に自殺してしまったということ。
その四、どうやらローファーのサイズはぴったり合っていたらしいということ。
彼女は教科書を忘れたと言ったが、あれは嘘だった。本当のところはビリビリに破かれて、トイレに流されてしまったらしい。
それからお母さんの卵焼きをよく食べているという話、そう、あれも嘘だった。彼女に振舞われていたのは、お母さんの卵焼きではなくてお父さんの暴力だ。彼女のお父さんは随分酷い暴力をお母さんにふるっていたらしく、お母さんはそれを気に病んで、マンションの屋上階から飛び降りてしまったのだという。お父さんは、それ以来いとも簡単に標的を変えた。
その四。これは言うまでもない。
生真面目な彼女は、靴を脱いで、この世界からいなくなってしまう機会を待っていた。そこに僕が現れた。
僕は彼女の絵を描いた、彼女にとって「理想の吉野綾子」を描いた、
だから彼女は、
「ねえ吉野さん。靴擦れは治った?」
平面の吉野綾子は、ただフェンスに手をかけて、今日も今日とて空を見ている。
普段と違う雰囲気で書いてみたので不安です